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駅のホームに停車する新幹線の先頭車両。流線型のノーズを斜め前から捉え、奥へホームと架線が伸びるモノクロ写真

「多少すねてもいい。一生懸命やれば、なんとかなる」

丸山央さん(筑波大学附属盲学校出身)

丸山央さんは、地元の普通校と筑波大学附属盲学校の両方を経験し、埼玉大学で物理学を学んだ後、ソフトウェアエンジニアとして33年半を走り続けてきました。高速鉄道の無線、超高層タワーのエレベーター。その仕事は、今日も社会のインフラを静かに支えています。

🎧 丸山央さんのインタビューをAIポッドキャストで聴く

※この音声は記事をもとにAIが生成したもので、独自の解釈が加わっていることがあります

丸山さん:
私の話はちょっと古いので、お役に立てるかわからないですが…。

聞き手:ーいえいえ、必ず響く方がいると思います!今日はよろしくお願いします。

丸山さん:
はい、よろしくお願いします。

聞き手:ーまずは「ざっくり自己紹介」をお願いできますか。

丸山さん:
丸山央と申します。筑波大学附属盲学校の出身です。1965年生まれで、未熟児網膜症が原因の視覚障害があります。右目は物心ついた時から全盲、左目は一番見えた時期でも視力0.03ほどでした。

小学校の後半と中学校は地元の普通校に通い、小学校の前半と高校で附属盲学校に通いました。埼玉大学の理学部で物理学を学んだ後、1992年からソフトウェアエンジニアとして33年半働いてきました。

テレビに映った3文字

聞き手:ー幼少期はどのような環境で過ごされていましたか。

丸山さん:
5歳のころから地元の幼稚園に通いました。周りの子がみんなすばしっこくて「みんな宇宙人みたいだな」と感じていましたね。まともにこの人たちとは勝負できないなという感覚が、もうその頃からありました。年長で盲学校の幼稚部に移りまして、小学3年まで盲学校の弱視クラスに、小学4年から地元の普通校に通いました。

聞き手:ー学習面では、どのような工夫をされていましたか。

丸山さん:
黒板の文字は全く見えなくて、教科書は高倍率のルーペや一部は手書きの拡大写本でなんとか読んでいました。当時は拡大読書機が非常に高価で手が出せなかったのですが、電気関係の仕事をしていた父がカメラとテレビを繋いで、台の上に置いたものが画面に映る装置を自作してくれたんです。

テレビ画面に映るのは、拡大された文字が3・4文字ほど。読むスピードは1分間に80文字ぐらいでとにかく読み書きに時間はかかりました。

レトロな部屋に置かれた古いブラウン管テレビ。画面に白く「きょう」の文字が映る。モノクロ写真。

聞き手:ー普通学校時代は、どのような環境でしたか。

丸山さん:
当時は「統合教育」と呼ばれ始めた頃で、近所の学校に通いながら、週に数日かは放課後に弱視学級へ通うスタイルでした。塾に行くような感覚でしたね。

小学校時代の担任の先生が良い方で、体育でも見学させるのではなく、走ったり泳いだりと、できることをうまく授業に組み込んでくれました。先生のさりげない工夫がたくさんあったんだと、今振り返って思います。ただ、中学になると球技が増えて漢字も複雑になり、普通の学校でやっていくしんどさも感じ始めていましたね。

感光器とアルコールランプ

聞き手:ー高校の進路はどのように決められましたか。

丸山さん:
中学での限界を感じて、高校ではしっかり勉強したいと思い、筑波大学附属盲学校を選びました。中学2年の夏休みに、附属盲学校の学生さんに家庭教師に来てもらって、1週間で点字を習得しました。高校からは読書量の多い国語や社会、英語は点字で受けるようになりました。英語の略字には最初かなり苦労しましたが、盲学校は情報保障の面でとても合理的な環境でしたね。

聞き手:ー盲学校での授業はいかがでしたか。

丸山さん:
理科の授業がとても面白かったです。化学では原子模型を触って構造を理解して、実験では光を音に変える「感光器」を使う。普通校では「危ないから」と遠ざけられがちだったアルコールランプも、ここでは自分の手で扱えました。実感を伴う学びが、理系の道につながった気がします。

聞き手:ー大学ではどのような勉強をされましたか。

丸山さん:
埼玉大学の理学部物理学科に進みました。「視覚障害のある学生が入学」と新聞に載るくらい、珍しかったようですね。理論物理であれば、実験系に比べて数式と論理で勝負できると考えたんです。ただ、量子力学の波動関数のように、視覚的なイメージが持てない抽象概念を理解するのは苦闘の連続でした。

幸い、国立大学にまだ予算があった時代で、研究室に拡大読書機を置かせてもらったり、音の出る電圧計を導入してもらったりと、環境には恵まれていました。

聞き手:ーできる限り配慮したいという大学側の想いが伝わってきますね。

丸山さん:
周囲の学生もごく自然にノートを貸してくれたり、移動を助けてくれたりして。体育では、私と、激しい運動ができない血友病の学生の2人のために、盲学校から先生が派遣されてきて、サウンドテーブルテニスをしました。異なる障害のある学生が一緒に体を動かす、ある種の合理的配慮の原型のような光景でした。

サウンドテーブルを象徴する写真。卓球台の上に置かれたラケットと白いボール。奥にネットが地面から浮いて張られている。モノクロ写真。

多岐にわたるシステム設計

聞き手:ー就活はどのように行いましたか?

丸山さん:
理系の学校だったので、企業側から色々なアプローチがあった時代でした。そんな中、研究室の先生が「視覚障害のある生徒もいる」ということを企業の人に話してくれたそうです。面接ではパソコンでつくった履歴書を持参して、どういう機器を使えば書類の読み書きができるかを実演して説明しました。当時の社長の理解もあって、東芝の関連会社に採用していただきました。

聞き手:ー33年半のキャリアでは、どのようなお仕事をされてきましたか。

丸山さん:
主にソフトの設計製造を担当してきました。最初は工場設備用の社内システムでしたが、次第に鉄道の自動列車停止装置や高速鉄道のデジタル無線装置など、社会インフラのソフトウェアを手がけるようになりました。

超高層タワーのエレベーター制御にも携わったことがあります。距離が長くてかごも大きいので、通常2つのブレーキを4つに増設する必要があって、その制御を実装しました。元々は別の庁高層ビル向けに作られたソフトを最新の法令に合わせる作業も含まれていて、開発言語を含めて特殊な仕事でした。

駅のホームに停車する新幹線の先頭車両。流線型のノーズを正面近くから捉えた。モノクロ写真。

聞き手:ー視覚に障害がある中で、どのように業務に取り組まれてきましたか。

丸山さん:
新人の頃、コピー取りや資料のファイリングといった「雑用」は、目が見えない私には難しかった。しかし、これが結果的にプラスに働きました。定型的な一般事務から解放された分、私は開発言語の習得や既存のソースコードの解析をする時間をいただくことができたのです。

ちょっとマニアックな話ですが、1990年代に言語がFortranからC言語に変わり、環境もメインフレームからWindowsに移っていく中で、開発されはじめていた画面拡大ソフトやスクリーンリーダーを使ってプログラムコードや膨大な資料からピンポイントで検索する技を身につけました。

元々かなりのロービジョンでしたが、就職して10年ぐらいで拡大しても文字を読めないほど視力が下がってしまいましたが、私の視力が見えにくくなるのと同時に、紙でしか読めなかった技術的な資料が電子データになって、マイコンの仕様書や通信プロトコルの企画書なども自力で読めるようになり、少し時間はかかるけど頑張って読み込んで他の人より詳しくなったりもしました。

聞き手:ー後輩がいたこともあるのでしょうか。

丸山さん:
そうですね。動作確認のような視認が必要な作業は後輩に任せて、私はその結果として出力されるログを解析するなど、役割分担することはよくありました。後輩が「動きました」と言っても、ログを見ると「このタイミングでこの処理が走っていないから正しくない」と分かることがある。自分の得意な部分と、人の助けが必要な部分を切り分けることで、チームの中に自分の役割ができていきました。

すねてもいい

聞き手:ー最後に、盲学校の生徒や保護者の方にメッセージをお願いします。

丸山さん:
私は5〜6歳の頃、「みんなと同じようには勝負できない」と、すねてたというかそんな気分を感じた記憶があります。でも、ずっとすねていてもつまらないし、そのときどきで自分にできることや興味を持ったことには本気で取り組んでみました。

私の場合はそれがたまたまパソコンだったりしました。人にはそれぞれ得意なことがあると思いますし、今はAIも進化して昔よりずっと情報にアクセスしやすくなっています。きっと、目の前のことを一生懸命やれば、なんとかなる気がしています。

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