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誰もいない教室。机が並ぶ中、黒板の前に置かれた車椅子に白杖が立てかけてあるモノクロ写真

「一度会えば、お化けじゃなくなる」

中山利恵子さん(筑波大学附属盲学校出身)

幼稚園の門を母がこじ開けた50年前から、「バリアフリーアドバイザー」として教壇に立つ今日まで。全盲の中山利恵子さんは、「会ったことがないから怖い」という壁を、自らをサンプルとして見せることで壊しつづけてきました。教育環境の理不尽、深い人間不信、そして人を信じる気持ちの再生。「一度会えば、お化けじゃなくなる」という言葉に込めた、人とのつながりへの思いを伺いました。

🎧 中山利恵子さんのインタビューをAIポッドキャストで聴く

※この音声は記事をもとにAIが生成したもので、独自の解釈が加わっていることがあります

聞き手:ーよろしくお願いします!まずは自己紹介をお願いします。

中山さん:
中山利恵子と申します。小学部は筑波大学附属盲学校、中学部は葛飾盲学校、高等部は文京盲学校に通いました。今は「バリアフリーアドバイザー」という肩書きで、学校でのユニバーサルデザインの出前授業や、企業の接客研修、高校生への点字指導などをやっています。

こじ開けられた門

聞き手:ー幼少期の教育環境について教えてください。

中山さん:
50年前、統合教育なんて言葉すらない時代です。母は兄と同じ幼稚園には私を入れられないだろうと思って、近所の小さなミッション系の幼稚園に連れて行ったそうです。夜に教会の門を叩いて、園長先生に「教会は困っている人を助ける場所でしょ。だから娘を助けてください」と詰め寄ったと聞いています。

母は後年「あれは半分脅しだった」と笑っていましたけど、それほど必死だったんですね。幸い、園長先生の奥様が視覚障害者への伝道に関わっていた縁もあって、入園が叶いました。

聞き手:ーその後、小学部からは筑波大学附属盲学校に進まれたんですね。どのような環境でしたか。

中山さん:
当時は未熟児網膜症の子が急増した時代で、先生たちもどう教育すべきか研究の真っ最中だったんですね。なので、何年も後に先生たちがまとめた論文や書籍を読んで「これ、私たちのことじゃない!」「私たちも協力者として名前を出してほしい」と、冗談で先生に伝えたりしています。

附属はとにかく自由でした。象徴的なのは「掃除用ロッカー破壊事件」ね(笑)。みんなで電車ごっこに夢中になって、木のロッカーにぎゅうぎゅう詰め合って遊んでいたら、メリメリって音がしてロッカーが壊れてしまった。でも先生は「何でこういうことしたの?」と理由は聞いても、「ダメでしょう」とは言わなかった。理屈が通っていれば子供の好奇心を尊重する、そんな場所でした。

誰もいない象徴的な学校。縦長の木のロッカーが並んでいる

「どうしてやらせてくれないの?」

聞き手:ー中学からは葛飾盲学校に移られますが、環境の変化はいかがでしたか。

中山さん:
附属の中等部入試に落ちてしまって、都立の葛飾盲学校に移ったんです。そこで教育環境の違いに驚きました。附属では走り幅跳びも、全盲の子が自分の歩数で踏み切り位置を決めて跳ぶのが当たり前だった。持久走だって、全盲の子は100メートルを10周、弱視の子は200メートルを5周と、同じ1キロでも納得のいく区別があった。

でも当時の学校では「見えないから走り幅跳びはできない、立ち幅跳びにしなさい」と最初から決められてしまって。「どうしてやらせてくれないの?」という気持ちは、ずっとありましたね。

聞き手:ー思春期の時期は、いかがでしたか。

中山さん:
高校時代に、学校での人間関係や家庭の事情が重なって、深い人間不信に陥った時期がありました。街で「青信号ですよ」と声をかけられても、嘘かもしれないと疑ってしまうほどで。でも、このままではいけないと思って、幼稚園の時の教会を訪ねたんです。

そこで再会した晴眼者の友人たちが、私の好きだった『ベルサイユのばら』の小説版をわざわざ探して持ってきてくれたり、「来週ね」という約束を当たり前に守ってくれたり。そうした一つひとつの積み重ねで、少しずつ人を信じる気持ちを取り戻していきました。

聞き手:ーその頃の経験は、今の活動にどうつながっていますか。

中山さん:
友人から「りえちゃんは盲人らしくない。でも晴眼者でもない。その中間なのがいい」と言われたことがあって。例えば一緒にテニスをするのは難しいけど、タンデム自転車ならみんなと一緒に楽しめる。そんなふうに「できること・できないこと」の境界線を仲間と交渉しながら過ごした経験が、今の自分の土台になっていると思います。

森の小道の脇に停められた、二人乗りのタンデム自転車。モノクロ

お化けを隣人に

聞き手:ー社会人としてのキャリアについて教えてください。

中山さん:
資格を取って鍼灸院を開業したんですけど、受付で電話を待つだけの生活に耐えられなくて。もっと外の世界と関わりたくて、日本コダックにヘルスキーパーとして入社しました。

コダックは障害を単なる「特徴」として捉える文化があって、暗所作業が必要なフィルム現像には全盲の方を、騒音の激しい工場には聴覚障害の方を配置できるといいよね、という話も出ていました。看護師さんと連携して必要な情報入力をサポートしてもらう体制もあって、環境を整えれば能力は発揮できるということを実感しました。

聞き手:ー「バリアフリーアドバイザー」という肩書きは、どのように生まれたのですか。

中山さん:
出産を機に自分で名乗り始めた造語です。企業の接客研修や高校での点字指導など、現場のニーズに合わせて活動しています。江東区では15年にわたってユニバーサルデザインの出前授業を続けていて、視覚・聴覚・車椅子の当事者と区の職員がチームを組んで行うんです。15年磨き上げた台本がありますが、終わった後の反省会は今でも真剣そのものですね。

誰もいない象徴的な教室。机が並ぶ中央に、車椅子と白杖が置かれている

聞き手:ー出前授業では、どのようなことを伝えていますか。

中山さん:
晴眼者にとって、視覚障害者って「どこかにいるとは聞いているけれど、会ったことがない」存在なんですよね。お化けみたいなもので、接点がないから怖かったり、どう接していいか分からなかったりする。でも、一度でも会って話をすれば、お化けじゃなくなる。「あ、こういう人がいるんだ」と分かる。私は自分をサンプルとして見せることで、その接点を作っているんです。ですので、ぜひ学校や企業で講師として呼んでください。

足元の自立

聞き手:ー視覚障害のあるお子さんを持つ保護者の方に、伝えたいことはありますか。

中山さん:
スマホを使いこなすとか、情報を得るスキルも大事だけど、それ以前に「一人でご飯が食べられるか」「一人でトイレに行けるか」という足元の自立が何より大切だと思っています。

周りの大人はつい愛情から先回りしてしまうけれど、それが子供の自立を遅らせてしまうこともある。お母さんたちの不安や悩みを聞きながら、「もう少し手を離しても大丈夫だよ」と伝えていきたいですね。

聞き手:ー最後に、これからの活動について教えてください。

中山さん:
スマホがあれば、家から一歩も出なくても生活できてしまう時代ですよね。便利だけど、それだけでは人とのつながりが薄れてしまう。知識やスキル以上に、誰かと関わっている実感が人を支えると思うんです。だから私は、呼ばれればどこへでも行きますよ。特に盲学校にお子様を通わせている保護者の方に、私の経験などを伝えたいので、いつでも頼ってください。

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