
「『好き』を諦めず、道を拓く」
石川麻さん(和歌山県立和歌山盲学校出身)
和歌山県の盲学校で過ごした15年間。それは、「実体験」を自信にしながら、社会へと羽ばたいていく石川麻さんの土台となっていった時間でした。自立を力強く後押ししてくれた先生との出会い。「スポーツに関わりたい」という「好き」を諦めないきもち。その軌跡は、社会でしなやかに自立していくためのヒントに満ちています。
— まずは、石川さんのプロフィールを教えてください。
石川さん:
網膜芽細胞腫が原因で、3歳のときに全盲となりました。物心ついた頃には見えていなかったので、見えていた記憶はほとんどありません。3歳頃から教育相談という形で和歌山県の盲学校に関わり始め、親子で通学していました。そして、幼稚園に入学する年齢で幼稚部に入り、そこから高校を卒業するまで、計15年間を同じ盲学校で過ごしました。
— 盲学校時代で、特に印象に残っている先生や出来事はありますか?
石川さん:
実は二人いるんです。
一人目は、歩行訓練をずっと担当してくれた男性の先生です。体育会系の方で、幼い頃は少し苦手意識があり、訓練を嫌がった時期もありました。でも、その先生は訓練の課題が終わると、残った時間でボール遊びなどスポーツの相手を全力でしてくれたんです。それが楽しくて、だんだん訓練にも前向きに取り組めるようになりました。

もう一人は、「普通とは何か」を教えてくれた女性の先生です。中学・高校時代に、「一般の中高生はこうだよ」と、外の世界の常識を私たちに伝えることで、いい意味でプレッシャーを与えてくれました。心配しがちな親との間でクッション役となり、私たちの挑戦を後押ししてくれた、とても大きな存在でした。
— 「盲学校に通ってよかった」と感じることはありますか?
石川さん:
三つあります。
一つ目は部活動です。 当時は生徒数が多かったので、グランドソフトボールのようなチームスポーツができました。大会で遠征に行く経験は、団体行動や知らない場所へ出かけることへの自信につながりました。
二つ目は多様な仲間と過ごした環境です。 盲学校には、重複障害や重度障害のある生徒もいて、様々な仲間と過ごすのが当たり前でした。体温調節が難しい子がいるのも日常で、「どうすればその子も一緒に遊べるか」を自然と子どもたち自身で考えていました。この経験のおかげで、社会に出てどんな方に出会っても、特別なことだとは思わず、自然に受け入れることができています。
三つ目は身近なロールモデルの存在です。 自分より少し年上の先輩たちが当たり前に自立していく姿は、「自分も大きくなったらこうなるんだ」という具体的な未来像を示してくれました。また、ご自身も視覚に障がいのある理療科の先生方が、子育てをしたり一人暮らしをしたりしている姿は、まさに「生きた教材」。「どうやったらできますか?」と担任に聞くと、「理療科の〇〇先生に直接聞いてきなさい」と言われることもあり、生きた学びが豊富にありました。
— 高校卒業後の進路は、いつから考え始めましたか?
石川さん:
小学生の頃から漠然と野球の裏方に憧れていて、「スポーツトレーナーになりたい」と言い続けていたんです。そのため、大学ではスポーツトレーナーやスポーツ栄養学の分野を学びたいと考えていました。しかし、いくつかの大学に問い合わせたところ、「実習をさせられない」「資格試験を受けられる見込みがない」といった理由で、門前払いに近い形で断られてしまいました。最終的には、京都の大谷大学・福祉学部に進学しました。
— 大谷大学を選んだ理由はなんですか?
石川さん:
まずは、障害のある学生の受け入れ実績が豊富で、社会福祉士の国家資格取得を目指せると約束してくださったことです。
もう一つは、個人的な理由です。当時、思春期だったこともあり、親元を離れて自立した生活を送りたいという強い思いがありました。和歌山から見て京都は、すぐに親が駆けつけられる距離ではないけれど、何かあれば来てもらえる、という絶妙な距離感。一人暮らしをするにはちょうど良い場所だと感じたんです。
— 初めての「盲学校の外側」である大学での生活は、いかがでしたか?
石川さん:
もともと、定期的に地域の学校との交流経験があったので、大きな戸惑いはありませんでした。大学のサポート体制も手厚く、試験は点字で受けられ、レポートはパソコンで提出でした。
授業の内容をパソコンに打ち込んでくれる、「有償ボランティア」の存在も大きかったです。その姿を見ながら、まわりの友人たちも進んで力を貸してくれることもおきました。

もちろん、お互い学生なので友人との間で「なんでいつも私が助けなきゃいけないんだ」といったぶつかり合いがなかったわけではありません。でも、それは子どもの喧嘩ではなく、対等な関係だからこそ起きるもの。そうした摩擦を乗り越えて築いた友情は、今でも続くかけがえのないものになりました。4年間、混声合唱団に所属したり、友人とカラオケでオールナイトをしたり…本当に普通の、楽しい大学生活でした。
— 大学卒業後はどうされたのでしょうか?
石川さん:
大学時代も、スポーツトレーナーになるという夢を諦めきれずにいました。大学進学の際に多くの大学から断られた経験から、この分野に進むには何か「武器」になる専門技術が必要だと痛感していたのです。そこで、京都にある視力障害者センターで、鍼灸あん摩マッサージ指圧師の資格を取得するために、さらに3年間学ぶことを決意しました。
— 専門学校では、大学とは違う難しさがありましたか?
石川さん:
はい、ありました。専門学校の利用者の大半は、大人になってから視力を失った中途失明の方々でした。生まれつきに近い形で視覚障害者として育ってきた私とは、文化や価値観に違いがあり、時にはぶつかることも。大人同士の立場で、障害歴が違うとこれほどまでに異なるのか、と知ったのは大きな学びでした。晴眼者の友人と関わるのとはまた違う、同じ障害のあるコミュニティ内での難しさを痛感しました。
— 資格取得後、最初にどのような仕事についたのでしょうか?
石川さん:
スポーツに関わりたいという希望と、大学で学んだ福祉の知識の両方が活かせると思い、「高齢者向けの運動型デイサービス」を選びました。主な仕事は、利用者さんへのマッサージや機能訓練のサポートなどです。特に、音楽に合わせて体を動かすプログラムを企画したところ、利用者さんたちがとても喜んでくれたのは大きなやりがいでした。

一方で、働くことの厳しさも経験しました。福祉の現場は多忙で、障害のある職員である私にまで配慮する余裕がない場面も多々ありました。さらに、コロナ禍でますます労働環境が厳しくなり、仕事内容にやりがいを感じつつも、このままで良いのかと悩み始んでいました。
— 現在のお仕事について教えてください。
石川さん:
その後結婚が決まり、3年9ヶ月勤めた京都のデイサービスを退職して、関東へ移住しました。現在の職場は、日本点字図書館が指定管理者となっている川崎市視覚障害者情報文化センターです。ここでは、主に中途で視力を失った方々を対象に、iPhoneやパソコンの基本的な使い方、点字などを教える日常生活訓練の支援員として働いています。
— これまでの経験は、今の仕事に活かされていますか?
石川さん:
まさに、自分が日常的に使っていることを仕事にできている、という点が一番大きいですね。iPhoneの音声読み上げや点字入力といった、自分にとっては当たり前の技術が、視力を失ったばかりの方にとっては新しい世界の扉を開くツールになります。それを自分の実体験として、生きた言葉で教えられることが、何よりの強みだと感じています。
— これから挑戦してみたいことはありますか?
石川さん:
今の仕事は続けつつも、長年の夢であるスポーツへの関わりは諦めていません。実は、大学時代に取得した「パラスポーツ指導員」という資格を持っています。視覚障害の当事者でこの資格を持つ人はまだ少ないので、このユニークな立場を活かして、パラスポーツの普及活動などに関わっていきたいです。仕事としてだけでなく、様々な形で、当事者ならではの視点で貢献していくのが今後の目標です。
— 最後に、盲学校に通う後輩やその保護者の方へメッセージをお願いします。
石川さん:
とにかく、色々な経験をしてください。勉強や訓練はもちろん大切ですが、それだけでは得られないものが世の中にはたくさんあります。実体験を通して学ぶことで、考え方の幅は驚くほど広がります。私自身、盲学校での多様な人々との関わりや、大学での新しい挑戦、社会に出てからの成功も失敗も含めた全ての経験が、今の自分をつくっています。経験できる場、体験できる機会は、多ければ多いほど良い。その一つひとつが、必ず未来のあなたの力になります。