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塚田友樹さん(東京都立文京盲学校出身)のインタビュー記事

「目が見えなくなっても、チャレンジし続ける原動力」

塚田友樹さん(東京都立文京盲学校出身)


今回の主役は、鍼灸師である塚田友樹さん。視力を失った後の葛藤、職業選択の現実、そして自らの治療院を開業し独立するまでの人生の軌跡を追いました。多くの壁を乗り越え、塚田さんがいかにして「守られる」立場から脱却し、自らの足で立つ「真の自立」と幸福を見出したのか。その挑戦と探求の物語から、私たちは生きる上で本当に大切なものを見出すヒントになるはずです。

ー本日はよろしくお願いします。まずは、簡単な自己紹介をお願いできますか?

塚田さん:
わかりました。塚田友樹と申します。現在38歳で、視力はほぼ全盲です。もともと網膜色素変性症を患っており、12歳までは普通校に通い、黒板の字も見えるくらいの視力はありました。しかし12歳の時に白内障を発症し、手術後に病状が進行、20歳ごろには現在の視力になりました。

経歴としては、文京盲学校の理療科を卒業後、企業のヘルスキーパー(企業内理療師)として12年間勤務しました。その後、2020年に独立開業し、現在は5年目になります。家族は全盲の妻と8歳の子どもがおり、最近、家も購入しました。

今日はNGなしで、できるだけ赤裸々な体験談をお伝えしたいと思っています。私の話が、皆さんの将来をリアルにイメージする一助になれば幸いです。

ーありがとうございます!早速ですが、白内障はどのように発覚したのでしょうか?

塚田さん:
あれは夏休みの終盤、8月20日を過ぎた頃でした。親に「いい加減宿題をやりなさい」と怒られ、いやいや算数の教科書を開いたんです。すると、教科書が「真っ白」で何も見えませんでした。

真っ白い教科書が象徴的に机の上に置いてある。

母に伝えても「夢でも見てるんじゃないの?」と信じてもらえませんでしたが、病院へ行くと白内障だと診断されました。その帰り道、母が泣きながら歩いていたのを今でもよく覚えています。ただ、当時の僕は小学6年生で、病気の深刻さが全く分からなかった。だから、母の涙の理由も理解できず、逆に僕が母を慰めながら帰ったんです。

ーそれは塚田さんにとっても忘れられないシーンでしょうね。

塚田さん:
そうなんです。夏休み明けに手術を受けましたが、アトピー持ちだったこともあり、術後の経過が良くありませんでした。夜中に無意識に目を掻きむしってしまい、眼帯もギプスも壊してしまうほどで…。それが原因で目にダメージが及び、半年ほど激痛に苦しみました。

学校に復帰したときには、視力は大幅に低下していました。夏休み前まで見えていた黒板の文字は全く見えず、教科書の文字も読めなくなっていました。その時初めて、「世界が変わってしまった」と事態の重大さに気づいたんです。

ー周りの反応はいかがでしたか?

塚田さん:
はい、手術後、小学校の同級生たちの態度は急変しました。いじめられるわけではないのですが、「どう接したらいいのか分からない」という戸惑いが伝わってきて、明らかに距離ができました。

子どもながらに「見えないことが伝わったからだ」と感じた僕は、元の関係に戻りたい一心で、「見えてるふり」を始めたんです。それが2〜3年続きました。今思えば、それが自分を一番大変な状況にしてしまった原因だと思います。

ーそうしてしまうお気持ちもわかる気がします。

塚田さん:
中学に進学する際、先生や親からは盲学校を勧められましたが、障害と向き合うことから逃げたくて、地元の公立中学校に進みました。しかし、見えないことを隠していた中学1年生の頃の僕は、周りから見れば「ただの劣等生」。運動も勉強もできず、チーム分けではいつも最後に残り、いわゆる「陰キャの集まり」の隅で過ごしていました。からかいの対象になることもあり、孤立し、劣等感に苛まれる日々でした。

不登校になった同級生の噂話をしているクラスメイトたちの会話が耳に入ってくることもありました。その時、強く思ったんです。「これ以上、惨めになるのだけは嫌だ」と。その一心で、なんとか学校には通い続けました。

しかし、中学2年生になる頃には、いよいよ隠しきれなくなりました。先生からの勧めもあり、クラスで自分の状況を公表することを決意しました。すると、状況は好転しました。僕のことを受け入れてくれる本当の友達ができたんです。カミングアウトしたことで、ようやくありのままの自分でいられるようになりました。

ー高校からは都立文京盲学校に進学されたとのことですが、そこでの経験はどのようなものでしたか?

塚田さん:
正直、入学当初は「人生これで終わったな」と絶望していました。最初の1ヶ月は誰とも関わらず、他の生徒を見下しているような態度を取っていました。しかし、優しく声をかけてくれる先輩や、自分と似た境遇の同級生と関わるうちに、次第に打ち解けていきました。

何より大きかったのは、「見えないふり」をしなくていい環境だったことです。無理に頑張らなくても評価され、自分の個性を見出すことができました。その環境は僕にとって大きな「癒し」と「安心」をもたらし、「人格的な部分」で圧倒的に成長できたと感じています。先生と生徒の距離感があまりに近く、親しげなことには最後まで馴染めませんでしたが、それも今思えば手厚いケアの一環だったのでしょう。

一方で、その手厚さに対して「危機感」も抱いていました。このまま社会に出た時、普通学級で育った人たちとの経験値の差を埋められるのだろうか、と。守られすぎていることが、社会で通用する力を育む妨げになるのではないかと常に懸念していました。

鳥が入った鳥籠の上にさらにガードがしてある、「守られすぎている」を象徴する写真

ただ、今振り返ると、盲学校での経験は非常に貴重でした。視覚障害だけでなく、知的障害や肢体不自由など、様々な障害を持つ仲間たちと3年間生活を共にしたことで、多様な立場を理解する力が養われました。これは、他では得難い経験だったと思います。

ー高校卒業後はどうされたのでしょうか?

塚田さん:
当初は大学進学を考えていたのですが、2歳上の兄が19歳で彼女を妊娠させてしまうという出来事があり、家庭が精神的にも経済的にも混乱して。それで大学は諦めざるを得なくなり、理学療法士と理療科を比較し、最終的に理療科を選んだのが現実的な経緯です。

学習面では非常に苦労しました。高校2年の途中から墨字から点字に切り替えたばかりだったので、膨大な試験範囲をこなすのは大変でした。点字で読み、DAISY(デジタル録音図書)を耳で聞くという合わせ技で、なんとか乗り越えました。

ーよく乗り越えましたね。

塚田さん:
しかし、最も衝撃的だったのは、外の世界とのギャップです。アンテナの高い同級生に誘われて外部の勉強会に参加した時、学校で教わる技術や情報が、約30年遅れた「閉鎖的」なものであることに気づかされました。「このままではまずい」と、現実に直面した瞬間でした。

そんな中、僕に希望を与えてくれたのは、外部で出会った一人の全盲の先生(師)でした。その先生は、膝や腰の痛みだけでなく、風邪や内科的な疾患まで鍼で治し、経済的にも成功されていました。その姿を見て、「これなら、諦めかけた人生を取り戻せるかもしれない」と、強いモチベーションが湧き上がってきたんです。鍼という仕事の可能性に、初めて光を見出しました。

木漏れ日の間から光が差し込んでいる象徴的な写真

ー卒業後は、企業のヘルスキーパーとして12年間勤務されたそうですが、それは塚田さんにとってどのような経験でしたか?

塚田さん:
ヘルスキーパーという職は、最初から「いずれ鍼で独立するためのステップ」と位置づけていました。正直、当時は視覚障害者のステレオタイプな仕事というイメージが強く、尊敬もできない先輩がその職に就いて偉そうにしているのを見て、「ダサい」と感じ、抵抗がありました。

実際に勤務してみると、雇用条件も良く、支援機器も整った非常に恵まれた環境でした。しかし、その一方で「守られている」という感覚が常にありました。仕事はしていても、本当の意味での「責任」が与えられていないと感じていたのです。肌で感じたのは、自分の役割が企業の法定雇用率を満たすための「数字」であるという空気でした。この環境が、精神的な自立を妨げるのではないかと、強い危機感を持ち続けました。

ーその環境で、あえて言葉にすると何が足りなかったのでしょうか?

塚田さん:
責任です。
一人ひとりの人材としての価値を見出して雇用されているのではなく、制度を満たすための人材として扱われている。その中でどれだけ成果を出そうとしても、与えられる責任には限界がありました。この経験が、自らの足で立つこと、つまり独立への思いをより一層強くさせたのです。

ーそして、ついにご自身の治療院とも鍼治療室を開業されたわけですね。独立して、何が一番変わりましたか?

塚田さん:
「自分の足で立っている」という感覚をはっきりと得られた
ことです。仕事のペースも、負うべき責任も、すべて自分でコントロールできる。この環境が、精神的に非常に満たされています。

経済的な自立も達成できました。開業して4年で年収は900万円に達し、家を購入することもできました。この経験から、「鍼灸」という仕事が経済的自立を目指す上で非常に有力な選択肢であると確信しています。

治療室にあるベッドとタオル。無人で象徴的

ー最後に、盲学校に通う生徒や保護者へのメッセージをお願いします。

塚田さん:
私が考える幸福の核心は、「ありがとうと言われること」そして「役割があること」です。障害を持つ立場は、「ありがとう」と言う機会は多くても、言われる機会は少ない。自分の仕事を通じてそのバランスを取り戻し、人から必要とされることで、幸福感は高まっていきます。

かつて「ダサい」と思っていた鍼灸という仕事が、時代が一周し、今やAIに代替されない身体性に根差した「かっこいい仕事」になっていると感じています。身体に触れ、その人の感覚に寄り添う仕事の価値は、これからますます高まっていくはずです。

常識にとらわれず、是非色々なことにチャレンジしてみてください。その経験や身につけたことが、思わぬ形で時代から求められるということがありますから。