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山口凌河さん(茨城県立盲学校出身)のインタビュー記事

「障害を受容し、世界が変わった」

山口凌河さん(茨城県立盲学校出身)


中学2年生の終わり。将来を嘱望された野球少年の世界は一変する。突然の目の異変、そして「レーベル病」との診断。光を失い、人生の目標だった野球を奪われた絶望の中、彼を救ったのは変わらぬ友情と、盲学校での新たな出会いだった。野球からゴールボールへ。絶望を受容し、成長の力に変えた彼は、新たな夢「パラリンピック出場」を掴み取る。底抜けに明るいキャラクターで道を切り拓く山口さんの姿は、自然と周囲に光をもたらしてくれる。

ーまずは自己紹介をお願いします。

山口さん:
はい。山口凌河、茨城出身です。中学2年生の終わり、東日本大震災の2週間後くらいに目の異変に気づきました。そこから約半年で視力を失い、中学3年生の8月にレーベル病と診断されました。今は「手動弁」といって、目の前で手を動かせば人影などがわかる程度で、指の本数などはわからない見え方です。

ー最初の異変は、どのような場面で気づかれたのでしょうか。

山口さん:
僕はもう「勉強よりも野球」という少年で、毎日野球漬けでした。異変に気づいたのも部活の時です。いつもなら打てるボールが打てない、ボールが消えるような感覚があって。「何か違うな」というのが最初のきっかけでした。ちょうどその頃、野球部の監督に「学校生活も改めろ」と言われて勉強も頑張り始めた時期で、最初は勉強のしすぎで目が疲れてるのかな、くらいに軽く考えていました。

ー そこから、これはただごとではない、と。

山口さん:
はい。春休みが明けて教室の黒板を見ても、明らかに感覚が違いました。家族や監督に相談しても、見た目ではわからない病気なので、誰もまともに取り合ってくれなくて。何度も訴えて、ようやく地元の眼科に行きました。そこでも原因がわからず、紹介された大学病院で検査を重ねる日々が始まりました。毎週視力検査のボードを見て、「先週は見えた7つ目が見えない」「次は6つ目、5つ目…」と、日に日に視力が落ちていく現実を突きつけられました。

無人の視力検査室の象徴的な画像

ー病名がわかるまでの期間は、非常に不安だったのではないでしょうか。

山口さん:
もちろん不安でしたが、それ以上に辛かったのは、大好きな野球ができないことでした。僕はキャプテンでキャッチャーというチームの中心だったので、練習に参加できない寂しさ、もどかしさの方が大きかった。結局、最後の大会にも出られず、チームは1回戦で負けてしまった。その時の無力感は今でも忘れられません。病気のことは、いつか治るだろうとどこか楽観的でしたが、野球ができないという現実の方が辛かったですね。

仲間という光

ー中学3年の夏に病名が確定した時の心境はいかがでしたか。

山口さん:
正直、現実を受け入れられませんでした。僕以上に、母系遺伝が原因と言われていた母は辛かったと思います。その現実から逃げたくて、夏休みはほとんど家に帰らず、地元の仲間たちと遊び歩いていました。家にいれば、両親が僕の目のことを心配して、将来の話をする。その「障害」というものに向き合うこと自体が嫌だったんです。遊ぶことで、その気持ちを紛らわしていたんだと思います。

ーその後の学校生活はいかがでしたか?

山口さん:
2学期になると文化祭や体育祭がありますが、今までクラスの中心だった自分が、みんなと同じように楽しめない。それが嫌で、1週間ほど学校に行かなかった時期がありました。でも、そんな僕を救ってくれたのも、地元の仲間たちでした。「お前がいないと学校がつまんねえよ」って、ヤンキーみたいな自転車で家に迎えに来て、無理やり学校に連れ出してくれたり(笑)。

ー素晴らしいご友人ですね。

山口さん:
彼らは、僕の目が見えていた時と全く同じように、フランクに接してくれたんです。彼らからすれば、特別に意識していたわけではないと思いますが、その「何も考えずに同じように接してくれる」ことが、どれだけ嬉しかったか。今の自分を作っているのは、間違いなく彼らの存在です。

「受容と成長」の盲学校時代

ー高校は盲学校に進学されたそうですが、それはご自身の希望だったのですか?

山口さん:
全く考えていませんでした。先生と両親が決めてくれて、行かざるを得なかった、というのが正しいかもしれません。地元の仲間と離れるのが嫌で、「福祉施設に隔離されるのかな」なんて、マイナスな感情しかありませんでしたね。入学した時はピアスを開けて髪も茶色で、本当に不貞腐れた田舎のヤンキーでした(笑)。

ーそのネガティブな感情は、どのように変化していったのでしょうか。

山口さん:
大きなきっかけが2つありました。1つは「ゴールボール」という新しいスポーツとの出会い。そしてもう1つが、人との出会いによる「障害の受容」です。僕の盲学校での3年間は、まさに「受容と成長」の期間でした

ーゴールボールには、すぐ夢中になったのですか?

山口さん:
はい。部活動としてあって、顧問の先生が当時の日本代表選手だったんです。しかも、僕が入学した2012年にロンドンパラリンピックで女子チームが金メダルを獲ったこともあり、すごく身近に感じました。最初はアイシェードで完全に視界を遮断されるのが怖かったですが、それ以上に「面白い!」「なんだこの新しい感覚は!」というワクワクが勝ちましたね。野球経験があったので、ボールを投げる感覚などはすぐに掴めました。

ゴールボールとグローブが象徴的に体育館に置かれている

ー もう一つの「人との出会い」についてもお聞かせください。

山口さん:
高校1年の時、ゴールボールのユース代表合宿に参加したのですが、そこで衝撃を受けました。僕よりもずっと見えていない先輩たちが、当たり前のように一人で練習に来て、当たり前のように自立した生活を送っていたんです。それまでの僕は、白杖を持つことや音声で操作するPCを使うことに心の抵抗がありました。でも、その先輩たちの姿を見て「これじゃダメだ」と。そこから本気で自立訓練に取り組み、高校2年からは一人で電車とバスを乗り継いで通学できるようになりました。

ー盲学校でのクラスメイトとの関係はいかがでしたか?

山口さん:
生まれつき全盲の同級生がいたのですが、彼との出会いは本当に大きかったです。彼は「小学校6年間、先生とマンツーマンだったから、自分が見えないことにすら気づかなかった」「色という概念がわからない」と話してくれました。それを聞いてハッとしたんです。僕は「目が見えなくなって、あれもこれもできなくなった」とネガティブに考えていたけれど、彼と話す中で、「自分には15年間見えていた経験がある。これはマイナスではなく、活かすべきなんだ」と考え方を変えることができました。この気づきが、障害を受容する大きなきっかけになりましたね。

一気に世界が広がった大学時代

ー盲学校卒業後は、東洋大学に進学されています。

山口さん:
入学するのは非常に厳しかったです。僕が通っていた地方の盲学校から一般大学への進学は、ほとんど前例がありませんでした。応援してくれたのは、ほんの一部の先生と両親くらいです。でも、僕は「社会に出たら障害者も健常者も関係ない。同じ土俵で戦わなければいけない」と強く感じていて、一般大学で揉まれることが必要だと思っていました。東洋大学は障害学生への支援体制が整っていたので、ゴールボールの実績などを武器にAO入試で合格することができました。

ー大学生活はいかがでしたか?

山口さん:
最高に楽しかったです。一番ノリの良いグループに飛び込んでいって友達をつくったり、学部を越えて色々な先生や学生アスリートと交流したり、人脈が格段に広がりました。大学3年の時には、先生の授業でゲストスピーカーとして話す機会をいただき、それが今の講演活動につながっています。ちなみに大学生活で一番思い出深いのは、6号館の屋上で昼寝したことです(笑)。あれは気持ちよかった。

無人の屋上。気持ちのいい青空が広がっている

ー現在は、競技と仕事を両立されていますね。

山口さん:
はい。茨城県の関彰商事という会社でアスリート社員として働いています。就職活動では、ただ競技結果だけを求められるのではなく、一人の社員として会社に貢献し、仲間として応援される環境を求めていました。今の会社の社長とは高校時代からご縁があり、その思いを理解してくださって、CSR(社会貢献活動)の一環として講演活動などを行いながら、競技に打ち込むという現在の働き方が実現しました。

夢の続きへ。ロスパラリンピック、そして未来へ

ー ゴールボール選手として、東京パラリンピックにも出場されました。

山口さん:
はい。ただ、コロナでの1年延期や自身の怪我もあり、主力としてではなく控え選手としての出場で、メダルも獲れず、非常に悔しい大会でした。その後のパリパラリンピックでは、代表6人の枠に対して7番目の選手という、あと一歩のところで出場を逃しました。

無人の体育館。何かが始まりそうな気配が漂っている

正直、もう辞めようかとも思いました。でも、仲間たちがパリで金メダルを獲ったんです。それを見たら、悔しくて、嬉しくて、本当に複雑な気持ちになって…「俺なしで金メダル獲るなんて、ふざけるな。やめてらんないな」って(笑)。それで、ロサンゼルスパラリンピックを目指すことを決意しました。

ー最後に、今、盲学校で学ぶ子どもたちやその保護者、先生方へメッセージをお願いします。

山口さん:
皆さんにお伝えしたいのは、「可能性は無限大だ」ということです。周りの環境や情報格差によって、可能性を狭められてしまうことがあるかもしれません。でも、決してそんなことはない。諦めずに自分を貫き通し、挑戦し続けてほしいです。そして、もう一つ大切なのが「受け入れる」ということ。僕自身、障害を受け入れるのに時間がかかりましたが、それがあったから前に進めました。子どもたちも、保護者の方も、まずは現実を受け入れる。その上で、それをどう捉えて一歩を踏み出すか。その心を大切にして、明るい未来を切り拓いていってほしいと強く願っています。