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河合純一さん(筑波大学附属視覚特別支援学校出身)のインタビュー記事

「触図をさわるように、世界を捉える」

河合純一さん(筑波大学附属視覚特別支援学校出身)


パラリンピックで21個のメダルを獲得した伝説的スイマーであり、教育現場で子どもたちと向き合った中学校教師。そして現在、日本のスポーツ行政を牽引するスポーツ庁長官。河合純一さんのキャリアは、まさに前人未到の軌跡です。ステージを変えながらも、常に「世界」というレーンを力強く泳ぎ続ける物語の核心に迫ります。

ー本日はありがとうございます。まずは簡単に、自己紹介をお願いします。

河合さん:
河合純一です。1975年に静岡県で生まれました。生まれた時から先天性の弱視で、右目が0.1見える程度、左目は見えない状況でした。地元の公立の小中学校に通っていたのですが、中学校に入る頃から右目の視力も下がりはじめ、中学3年生の頃にはほぼ全盲になりました。5歳から水泳を始めて、小中学校では部活動でつづけていました。

ー思春期に視力を失っていくというのは、複雑な心境だったのではないでしょうか。

河合さん:
幸いだったのは、そのタイミングが、周りのみんなも高校進学で進路がバラバラになる時期と一致していたことです。自分だけが特別な状況になるというより、みんながそれぞれの場所へ旅立っていく。その大きな変化の時期と重なったことで、救われた部分があったのかもしれません。

また、小学校4年生の時の担任の先生に憧れて、その頃からずっと「教師になりたい」と思っていました。視力を失った時も、その気持ちはぶれていません。夢がはっきりしていたことも、間違いなく大きな支えでした。

誰もいない象徴的なプール。

そして、もう一つ大きかったのが水泳の存在です。プールに入れば、見えようが見えまいが、自分の思うように泳ぐことができる。そこは、変わらない自分を再確認するみたいな、そういう装置の役割があったような気がします。

ー高校からは、盲学校への進学を決意されました。

河合さん:
はい。点字も白杖での単独歩行も全くできない状況でしたから、盲学校に行く必要がありました。筑波大学の附属盲学校を勧められ、受験しました。まさに「未知の世界に行くみたい」という感覚でしたが、教師になるためにはこの道が最善なんだと自分で決めたのだから、その中でやるしかないな、という一種の割り切りはありましたね。

ー盲学校に通って良かったと感じる点は何でしょうか。

河合さん:
やはり、同じ境遇の仲間たちとのネットワークができたことですね。そして、視覚障害者として生きていく上で必要な、点字や白杖歩行といったスキルを基礎から学べたことは非常に大きかったと思います。いつかは自分も、視覚に障害のある子どもたちの役に立てるようなことがしたい、と改めて思わせてくれる場所です。

二つの居場所が自分を強くした

河合さん:
その後は、早稲田大学教育学部に進学しました。高校時代とは違い、同じような見え方の仲間が常にいるわけでもないし、歩行を指導してくれる先生がいるわけでもない。ある程度のことは自分でしながら、必要に応じて大学のサポートを受けるという生活でしたので、結果的にこの時代に鍛えられたな、という気はしますね。

ー大学で教員免許を取得された後、地元・静岡の中学校で教員になられました。当時の教員採用試験は非常に厳しかったと伺っています。

河合さん:
ええ。当時は特に中学校の社会科の採用倍率は天文学的な数字で、東京だと300倍や500倍、私が受けた静岡でも50倍と言われました。300倍よりは50倍の方がまだ可能性はあるかな、という思いでしたね。なんとか試験には受かり、その後8年間教員として教壇に立ちました。

ーご自身にとって、どのような時間でしたか?

河合さん:
社会人として、そして教師としての基礎を、みっちりと叩き込まれた時期でした。何より、子どもたちが常にいる場所というのは、私自身もいつも元気をもらいましたし、大変学びにもなりました。

誰もいない象徴的な教室。教壇が真ん中にある。

ーその一方で、パラリンピックで次々と金メダルを獲得されていました。教師とトップアスリート、この二足のわらじの生活は、どのようにして成り立たせていたのでしょうか。

河合さん:
若かったから、そして好きだったからできた、というのが正直なところでしょうね。それに、複数の居場所があることは、結果として自分を強くしてくれたと思います。

ー精神的な支えにもなっていたのでしょうか。

河合さん:
まさにそこだと思っています。最近よく言われるように、自立とは依存先を増やすことですよね。一つのコミュニティだけに依存していると、そこで何かうまくいかなくなった時に行き詰まってしまう。また、私の場合は、学校で応援してくれる生徒や保護者、同僚の存在が水泳の力になりましたし、逆に世界で戦うという経験を持つ教師はそう多くいませんので、そのことを子どもたちに直接何かを伝えられる強みにもなりました。

ー教員生活の中で、象徴的な出来事はありましたか。

河合さん:
最初に担任した生徒たちを3年間持ち上がりで担当し、卒業生として送り出した時のことです。卒業式の後、教室で最後の一言を伝えようとしたのですが、教壇に立った瞬間、言葉が出てこなかったんです。感動が極まったというのもありますが、同時に「もっと良い言葉を伝えられたのではないか」「もっと勉強していれば、もっと多くのことをしてあげられたのではないか」という悔しさ、自分の未熟さを痛感しました。その思いが、その後大学院でもう一度学び直そうという決意に繋がりました。

予想外の連続。そしてスポーツ行政のトップへ

ー大学院の後に教員として復職され、さらにその後は教育委員会の指導主事という立場に移られます。これはキャリアの大きな転換点ですね。

河合さん:
現場だけでなく、教育をより広い視点から見てみたいという思いがありました。その後、教育にもっと力を入れるべきだという思いから、国政選挙に挑戦した時期もあります。結果として自分には向いていないと感じ、断念しましたが。

ーその後JPC(日本パラリンピック委員会)の委員長に就任されたのは、自然な流れだったのでしょうか。

河合さん:
いえ、全く予想していませんでした。アスリート委員長などを務めていたので、東京大会の選手団長といった役割なら、もし機会があれば、くらいには思っていましたが、委員長の話が先に来たのは驚きでした。

ー JPCでのご経験を通じて、どのような学びがありましたか?

河合さん:
組織も人も、適度な新陳代謝によって育つということです。もちろん、専門性を極める職人的な生き方も素晴らしいですが、組織で何かを成し遂げようとする時、人事異動も含めた人の流動性が、結果的に組織全体を強くすると信じています。短期的な視点ではなく、10年、20年というスパンで組織を考える視点が重要だと、JPCでの5年間で改めて感じました。

流動性を象徴する、おだやかな海の海面。どことなくプールも連想される。

ー そして昨年、スポーツ庁長官に就任されました。これもまた「予想外」だったのでしょうか。

河合さん:
はい、予想外でした。個人的には、次の長官は女性が良いだろうと思っていましたので。

ー なぜ河合さんが選ばれたとご自身では分析されていますか?

河合さん:
結果的に、これまでの多様な経験が評価されたのかな、と思います。例えば、今まさに中学校の部活動改革という大きな課題に取り組んでいますが、私自身が中学校教師として部活を指導した経験、そして県の教育行政の立場で学校現場を見てきた経験の両方がある。これは現場の先生方とのコミュニケーションにおいて、大きな強みになっていると感じます。県の教育行政を経験し、指導主事をしていたということに対して、県や市の教育委員会の方々は一目置いてくれるところがあるんです。

それに加え、アスリートとしての経験、JPCで競技団体を運営した経験。これらすべてがミックスされた結果なのかな、と。

触図をさわるように、世界を捉える

ー河合さんが大切にされている哲学のようなものはありますか?

河合さん:
私は、物事を考える時に「触地図」を触る感覚をとても大切にしています。物事を捉える本質を示していると思うんです。

世界地図の触地図

ーどういうことでしょうか?

河合:
触地図を理解する時、まず手のひら全体を使って、地図全体の大きさや形、大陸がどう配置されているかといった全体像(マクロ)を捉えますよね。その上で、今度は指先を使い、特定の国や都市がどこにあるかといった詳細(ミクロ)を探っていく。

この「全体から細部へ」、そして「細部から全体へ」と視点を行き来する感覚が非常に重要なんです。社会の問題を考える時も同じで、目の前のゴミというミクロな事象と、地球温暖化というマクロな問題がどう繋がっているのか。その両方の視点を常に行き来しながら物事を捉えるトレーニングをすることが、特に視覚障害教育においては大切なのではないかと考えています。

ー最後に、全国の盲学校に通う子どもた、保護者や先生方に、メッセージをお願いします。

河合:
見えない、見えにくい子どもたちだからこそ、社会がどうなっているのか、様々な物事がどういうことなのかを、うまく伝えていくことが大切だと思います。ただ、この「伝える」という行為は非常に難しくて、情報は多すぎてもダメですし、少なすぎてもいけない。そのバランスは一人ひとり違うので、個々の状況を丁寧に見極めながら関わっていただくのが良いのかなと感じます。