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開いたガラス扉から外へ歩き出す人の足元を、後ろから足元の高さで捉えたモノクロ写真。白いスニーカーの片足が床を蹴り上げ、扉の向こうには水辺の景色がぼんやりと広がっている

「25歳までの時間を大切に」

恩田利夫さん(埼玉県立盲学校出身)

埼玉県立盲学校からヘレン・ケラー学院へ進み、25歳で鍼灸院を開業。47年の治療家人生の傍ら、小中学校での福祉教育や小説の執筆にも取り組んできた恩田利夫さんに、お話を伺いました。

🎧 恩田利夫さんのインタビューをAIポッドキャストで聴く

※この音声は記事をもとにAIが生成したもので、独自の解釈が加わっていることがあります

恩田さん:
とりあえず何でもお話ししますよ。なにせ47年も働いてきましたから(笑)。

聞き手:―心強いです!ではまず、自己紹介をぜひお願いします。

恩田さん:
恩田利夫です。1954年、昭和29年生まれ。風疹の影響で白内障があり、弱視として生まれました。地元の小学校に3年まで通った後、埼玉県立盲学校に移って、小学部・中学部をそこで過ごしました。中学部を出てから、当時「別科」と呼ばれていたあんま科を卒業しました。次の進路を考える時期に、周囲からは文京盲を勧められたんですが、私はヘレン・ケラー学院の鍼灸科を選びました。ヘレンを出てからずっと鍼灸師をやっています。

親ほどの年のクラスメート

聞き手:―ヘレン・ケラー学院を選ばれた理由は何だったのですか。

恩田さん:
中学1年のときに、ヘレンは中途失明の方たちが社会復帰を目指す場所だと聞いたんです。子どもながらに「ここに行けばダイナミックな変化があるかもしれない」と。もっと成長したいという渇望がありましたね。親も学校も猛反対でしたが、押し切って入りました。

聞き手:―実際に入学されてみて、いかがでしたか。

恩田さん:
クラスメートのほとんどが自分の親くらいの年齢で、20代なんて数えるほど。最初は「俺、大丈夫かな」と怯みました。でも、いろんな人生を背負った大人たちに揉まれるうちに、人間としての幅が広がった感覚がありましたね。お酒の飲み方から人生の機微まで、学校では教わらないことをたくさん叩き込まれました(笑)。あの時、慣れ親しんだ環境に留まらず飛び込んだ経験が、後の自分の土台になったと思います。

薄暗い居酒屋のテーブルに置かれた、水滴のついたビールジョッキ。モノクロ写真。

聞き手:―ヘレン以外にも、学生時代に挑戦されたことはありますか。

恩田さん:
盲学校時代に冗談半分で『スター誕生!』にハガキを出していたのを忘れていたら、ヘレンに入った年に予選の招待状が届いたんですよ。「これも経験だ」と思って会場に行ったら、650人の女子に対して男子は20人ほど。圧倒されましたけど、「やっぱり経験って大事だな」と味を占めたんです。文化放送の予選も受けました。結局どちらも落ちたから今こうして治療家をやっているわけですけど(笑)。

夜は無線、昼は治療

聞き手:―ヘレンを卒業されてからは、どのような道を歩まれましたか。

恩田さん:
マッサージのアルバイトを少し経験してから、1979年、25歳のときに実家の一部を改装して鍼灸院を開きました。以来47年です。当時の生活は、昼間は治療、夜はアマチュア無線に没頭する毎日で。無線で世界中の見知らぬ人と話すのが楽しくてね。仕事とは一見関係のない遊びですけど、知らない人との対話を繰り返す中で、患者さんに寄り添うコミュニケーションの力が自然と磨かれた気がします。

机の上のアマチュア無線機。周波数表示と大きなダイヤル、手前に電鍵とメモ帳。モノクロ写真。

聞き手:―お仕事をする上で、大切にされていることはありますか。

恩田さん:
師匠から教わったことなんですが、「カルテ外の話は患者とするな」ですかね。世間話はいいけれど、それ以上深く踏み込むなという意味です。若い頃はその境界線に悩むこともありましたが、この教えは職業倫理として守り続けてきました。

ただ、プロとしての距離を保ちながらも、患者さんが抱えている人生の重みを感じる瞬間はあります。がんを患っていた女子高生の子が「自分の手で卒業証書を受け取りたい」と話してくれたことがありましたが、卒業式の数週間前に亡くなってしまった。あの経験は今でも胸に残っています。

聞き手:―治療家の傍ら、小中学校での福祉教育にも長く携わられたそうですね。

恩田さん:
実は若い頃、中学校の教師になりたかったんです。その夢は一度諦めたのですが、1996年頃に社会福祉協議会から「学校で話をしてほしい」と依頼が来ました。よく「諦めた夢は20年、30年経つと形を変えて現れる」と言いますが、まさにその通りで。結局14年ほど、三郷市内の小中高校で講師を務めることになりました。多い年は30校以上回りましたね。

聞き手:―授業ではどんなお話をされていたのですか。

恩田さん:
盲学校での遊びの話がいちばん子どもたちに受けましたね。音を頼りにやる室内野球があったんですが、壁に当たればヒット、柱なら二塁打、天井ならホームラン。このルールを話すと、みんな身を乗り出してきます。子どもたちに、点字で自分の名前を書いてもらう授業もしましたよ。子どもたちが打った点字を私がその場で読み上げると、「合ってた!」ってすごく喜んでくれるんです。

聞き手:―14年続けられた中で、変化を感じることはありましたか。

恩田さん:
団塊の世代の子がいなくなったからかもしれませんが、年々教室が静かになっていったんです。かつては活気に溢れていたのに。ただ、私自身の教え方にも問題があるのかもしれないと思い、自分の役割は別の形にあるのかもしれないと感じて、身を引くことにしました。

『はじめの一歩』

聞き手:―「別の形」というのは、小説でしょうか?何がきっかけで書かれたのでしょうか。

恩田さん:
治療院に来る女子高生たちの変化がきっかけでした。2010年を過ぎた頃から、彼女たちが何かを我慢しているように見えた。本当は同性の治療家に心の奥の悩みを聞いてほしいのではないか。女性の鍼灸師がもっと増えてほしい。そんな思いを込めて、孫娘が鍼灸師になるまでの成長を描いた小説『はじめの一歩』を書きました。

白いスニーカーで開いたドアから外へ歩き出す人の足元。後ろから撮影。モノクロ写真。

聞き手:―出版までの経緯を教えてください。

恩田さん:
文芸社のコンテストに応募して、結果は落選でした。でも企画担当者の方から「これは本にしませんか」と電話をいただいて。そこから3ヶ月ほど筆が進まない時期もありましたが、今年の春に出版できました。精神科医の和田秀樹さんの本に「引退する前に人生を振り返り、文字にしてみなさい」とあって、背中を押されたのも大きかったですね。

聞き手:―盲学校の後輩や若い世代に、伝えたいことはありますか。

恩田さん:
2つあります。一つは、専攻科にいる女子生徒の皆さんに、ぜひ鍼灸師になってほしいということ。47年やってきた実感として、鍼灸は女性のほうが向いている仕事だと思っています。細やかさ、柔らかさ、当たりのソフトさ。特に漢方の鍼灸にはそれが求められますし、そこは男性ではかなわないところがある。難しいと思わずに、まず優しいところから入っていけば十分やっていけます。

もう一つは、思春期から25歳くらいまでの時間を大切にしてほしいということ。この時期は環境の変化に柔軟に対応できる、人生で一度きりの時間です。やりたいと思ったことは、とりあえずやってみてください。ダメだったらやり直せばいいし、違う道を探せばいい。25歳を過ぎると、どうしても保守的になりますから。

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