
「人生には光も影もある」
佐藤ひらりさん(筑波大学附属視覚特別支援学校出身)
2020東京パラリンピック開会式。国立競技場の中心で響き渡った佐藤ひらりさんの国歌独唱を覚えている方も多いかもしれません。本記事では、ひらりさんとお母さまとの対話を通じ、地元の学校での「前例なき挑戦」から、シンガーソングライターとして働くまでの歩、そして人生の「二面性」についてお話を伺いました。
ーまずは最初に、自己紹介をお願いします。
ひらりさん:
はい、シンガーソングライターの佐藤ひらりです。新潟県出身です。N.Y. アポロ・シアターや東京2020パラリンピック開会式など、色々な場所で歌を歌ってきています。今日はよろしくお願いします。
ー早速ですが幼少期のことを教えてください。ひらりさんは地域の幼稚園に通われたんですよね。
お母さん:
そうなんです。最初は、地元の保育園10箇所ほどから「お母さんが家で見ていください」と断られてしまいました。でも、あるとき間違って参加した保育士さんの勉強会で、とある先生と出会ったんです。その先生の園に遊びに行った際、ひらりが雨上がりの泥んこの園庭でドロドロになって遊んだんですよ。
ひらりさん:
懐かしい。ぐちゃぐちゃになって遊びました(笑)。
お母さん:
それを見た先生が、「この子、目は見えないけどこんなに『適当(大胆)』でいいの? だったらうちで引き受けるわ」って言ってくださって。
ひらりさん:
先生が電子ピアノで流してくれた美空ひばりさんの『川の流れのように』が、私が音楽に興味を持ったきっかけなんです。また、先生方は点字カードを自作して点字教育をしてくれて、「私たちがひらりちゃんを育てますから」と言ってくれたそうです。この保育園に通えて本当によかったです。

ー小学校からは盲学校に通われたのでしょうか?
お母さん:
いえ、地元の小学校の「弱視学級」に通いました。もともとその学校には視覚障害者を受け入れる土台がなかったので、ひらりが保育園に通っていたときから教育委員会や自治体と交渉をはじめました。例えば福島県や東京都など、他の地域にも弱視学級がもうありますよという例を示しつつ、予算を確保していただきながら、弱視学級を新設していただきました。「前例がない」と言われたら「じゃあ私たちが前例になればいい」と、半ば意地でしたね。
ーすごい行動力です!ちなみに、なぜ「地元の学校」にこだわられたのでしょうか。
お母さん:
結局、この子がこの町で生きていくなら、地域の人に「佐藤ひらり」を知ってもらい、可愛がってもらわなければ生きていけないと思ったからです。
ひらりさん:
でも、高学年になると、同級生との会話や遊びの内容に少しずつ「溝」を感じるようになって…。勉強も、科目によっては理解が難しくなったり、みんなで遊ぶときにも、やっぱり目を使うことが多いじゃないですか。だから、小学校5年生のときに新潟盲学校に転校しました。
逆境と気晴らし
ー盲学校で印象に残っていることはありますか?
ひらりさん:
そうですね、特に最初の1年はすごく辛かったです。私としても、盲学校という新しい環境に飛び込んだばかりで教室の場所すら分からないのに、担任の先生からは「自分で覚えなさい」と突き放されました。保健室に行くだけで20分かかって、廊下で泣きじゃくることもありました。
お母さん:
私は、 転校したその日に、校長先生から言われた言葉が忘れられません。「あなたは可哀想な子だね、盲学校なんかに来て」と。盲学校の校長先生が、盲学校の可能性自体を否定しているようで信じられませんでした。
ひらりさん:
担任の先生からは「いつもこうやって逃げてきたから、何もできないようになったんだ」とも言われました。その後2年間、ほとんど不登校に近い状態でした。ただ、その時期も音楽活動をしていたんです。
ー辛い盲学校生活の裏で、どのような活動をされていたのでしょうか?
ひらりさん:
はじめて人前でコンサートをしたのが、母に連れられて行った老人ホームだったのですが、私の歌を聴いたおじいちゃん、おばあちゃんが涙を流して喜んでくれたんです。その時、母が「歌いつづけることが、周りへの恩返しになるかもしれないね」と言ってくれて。そこで初めて、自分の歌が誰かの救いになることに気づきました。
お母さん:
その様子が新聞に取り上げられて、その記事を読んだ人からまたコンサートの依頼がきて、とその後はずっとコンサートを続けてきたよね。
ひらりさん:
11歳の時にゴールドコンサートでグランプリを獲り、12歳でアポロシアターの舞台に立ったのもこの時期です。音楽は私にとって「最大の気晴らし」でした。
ーその後高校からは東京に出られるんですよね。
お母さん:
はい、東京の筑波大学附属視覚特別支援学校への受験を決意しました。新潟盲学校側は「国立はそんなに甘くない」と消極的だったので、私が独自に「山を張った」対策ドリルを作ったんです(笑)。「ひらり、多分このあたりが出るから、とりあえずこのドリルをやっておいて!」と。
ひらりさん:
そうしたら、お母さんの山が当たって、狙いをしぼって勉強したところが見事受験に出たんです。試験が終わった後「お母さん、山だらけだったよ!」「山?山ってなんのこと?」「ほら、お母さんの山が当たったんだよ!!」と会話したことは忘れられません。

運命を変えたアメイジング・グレース
ー筑波での生活はいかがでしたか?
ひらりさん:
はじめて新潟を出ることもあって、プレッシャーも凄まじく、入学当初は寝言で「できません、ごめんなさい」と謝り続けるほど精神的に追い詰められていました。仲間には恵まれましたが、特定の先生とそりが合わず、音楽面では期待していたほどの教育を受けることができませんでした。
早い段階から高校卒業後の音大のことをお母さんと調べて、最終的には武蔵野音楽大学総合音楽学科作曲コースへと進みました。
ー大学時代は何かプラスの側面はありましたか?
ひらりさん:
ありました!大きな変化は、先生から教えてもらって、iPadでGarageBandというソフトをつかった制作をはじめたことです。Macの読み上げ機能(ボイスオーバー)は音楽ソフト上では複雑すぎて一人で完結するのが難しいのですが、iPadなら自分の指先だけでコードを組み立て、リハーモナイズ(編曲)し、デモ音源を完成させられます。また、今まで自分の中にはなかったコード進行を先生から教えてもらったりと、自分の音楽人生にとって大事な時期となりました。
お母さん:
あと、大学在学中に、 パラリンピックのオーディションも受けたんです。最初は数あるキャスト候補の一人に過ぎませんでしたが、衣装フィッティングの会場で、それぞれが何ができるかを確かめる時間に、「ひらり、『アメイジング・グレイス』歌ってみて」と耳打ちをして(笑)。歌った瞬間、その場にいた関係者全員が息を呑みました。
ひらりさん:
頼まれてもいないのに歌ったのですが(笑)、その出来事が決定打となり、「国歌独唱者」という大役に引き上げられたのだと後で聞きました。
スティービー・ワンダーへの夢
ー現在の活動について教えてください。
ひらりさん:
今は毎日が作曲三昧です。コロナ禍で全ての仕事が消えた時期もありましたが、それが逆に、じっくりと音楽と向き合う時間をくれました。地元三条市の新しい学校の校歌をも手掛けました。また、ありがたいことに次々とコンサートの依頼をいただくので、充実した日々を過ごせています。

ー学校に苦労したひらりさんと、ステージで輝くひらりさん。一度に2つの人生を歩んでいるようにも感じます。
ひらりさん:
そうなんです!私の人生は「二面性」なんです。称賛と拒絶、光と影。これからも二面性の人生はつづくかもしれません。
ー何か夢はありますか?
ひらりさん:
日本のスティービー・ワンダーになることです。彼の音楽を聴くとき、誰も「この人は目が見えないから」なんて考えないですよね。ただ音楽の素晴らしさに圧倒される。私もそんな、障害の有無を超えた「個」としての才能で勝負したい。そしていつか、スティービー・ワンダーとステージで共演することが、私の究極の目標です。
ー実現する日を楽しみにしています!最後に、全国の盲学校で学ぶ後輩たちや、保護者の方々へメッセージをお願いします。
ひらりさん:
「夢を叶えるまで、言い続けること」をやめないでください。周りにどんなに否定されても、自分の「心の目」で見えた景色を信じてほしい。叶った時の自分を鮮明に想像し続ければ、見えないからこそ辿り着ける「七色の夢」が必ず待っています。