
「温室を出て、外の風に触れる」
川嶋健太さん(静岡県立沼津視覚特別支援学校出身)
- 校正
- 音楽
- 全盲
静岡の地元の盲学校、東京の筑波、そして再び地元の盲学校へ。祖父が独学で覚えた点字への愛と、「アンテナを高く持つ」という考えを携え、現在は日本ライトハウス情報文化センターで点字校正者として働く川嶋健太さんに、これまでの道のりを伺いました。
聞き手:―川嶋さん、はじめまして!
川嶋さん:
はじめまして!今日はどうぞよろしくお願いします。
聞き手:―早速自己紹介をお願いします。
川嶋さん:
川嶋健太です。静岡県出身で、未熟児網膜症のため、現在は光を感じる程度の見え方です。
小学部を沼津視覚特別支援学校、中学部を東京の筑波大学附属視覚特別支援学校、高等部は静岡県に戻り、浜松の視覚特別支援学校で過ごしました。
その後、静岡福祉大学に進み、現在は大阪の日本ライトハウス情報文化センターで、教科書や図書の点字触読校正を担当しています。
聞き手:―小学校入学前はどちらに通いましたか?
川嶋さん:
幼稚園は地元の普通の園に通いました。双子ですのでもう一人と一緒で、周りの子と対等に口喧嘩をしたり、泥だらけになって遊んだり。
そこを支えてくれていたのが、「普通の子と同じ経験を」という両親の方針です。自転車に乗れるようにしてくれたり、キャンプに連れ出してくれたり、障害を理由に可能性を狭めない環境を作ってくれました。
聞き手:―沼津視覚特別支援学校はいかがでしたか?
川嶋さん:
6年間、クラスは私一人でした。全盲で点字を使う児童が長らくいなかったので、常に大人に囲まれていて、ちょっとませた小学生だったと思います。比較対象がいない孤独はありましたが、その分、基礎教育を徹底的に受けられました。
月に1回、地元校との交流学習もあって、授業に参加していました。また、毎年参加していた運動会では組体操で上に登ったり、ソーラン節のふりつけを覚えたこともありましたね。
聞き手:―点字はどのように習得されましたか?
川嶋さん:
幼稚園生のころから週一回盲学校の教育相談に通い、「ア」や「メ」など単純な形の文字から教わりました。
また、祖父の存在が大きいです。僕が全盲だとわかった時、祖父はすぐに点字盤を買い求め、独学で点字を覚えてくれました。そして孫のためにと、何十冊もの本をコツコツ点訳してくれました。祖父が訳してくれた論語の本は、今も手元に置いて人生の糧としています。
聞き手:―小学部での学びで、今の川嶋さんに活きていると感じるものはありますか?
川嶋さん:
ソロバンの授業です。点字は筆算が難しいのでその代わりにソロバンをみっちり教わりました。点字は横書きなので、分数の計算をするとき、ソロバンで数の位置を固定して配置すると、約分や構造の把握が圧倒的にスムーズになるんです。この「情報の構造を触覚で捉える」訓練は、今の自分の血肉になっています。
また、自立活動での歩行訓練や家庭科での調理実習も一人暮らしの今とても役立っています。

「大海」と「井戸」のあいだで
聞き手:―中学校からは東京の筑波大学附属盲学校に進学されました。
川嶋さん:
寄宿舎生活の最初の3ヶ月は寂しくて泣いていました。でも先輩や同級生と過ごす中で自然と涙は消え去りました。
聞き手:―筑波での学びで印象的だったのは、どんな時間でしたか?
川嶋さん:
理科の授業ですね。骨格標本を徹底的に触って、どの動物かを推理する。化学実験では、薬品の温度変化や試験管の液面の高さを、一歩まちがえればヤケドすることもある中で、試験管の外から指先で確認する。そうした体験を通じて、多少の危険をいとわず自ら情報をつかみとる姿勢を学びました。
授業とは違いますが、もう一つ印象に残ったことがあります。とある同級生が白杖一本で颯爽と電車に乗り、単独通学してくる。沼津では車での送迎が当たり前だった自分にとっては、「これが本当の自立か」という鮮烈な憧れでした。
聞き手:―高等部では再び地元の浜松へ戻られます。
川嶋さん:
正直にいえば、当時は気持ちが塞いでいました。筑波では当然だった「大学に進む」という選択肢が、地方校では最初から視野に入っていない空気があって、周囲の期待値の低さに戸惑いました。
さらに苦しかったのが、学校の過保護な姿勢です。歩行訓練を積んで一人で歩ける実力がついていたのに、「責任が取れない」という理由で単独外出を許可してもらえなかったんですね。
聞き手:―それは過保護というより先生の保身にみえますね…。
川嶋さん:
訓練を担当してくれていた先生が、申し訳ないと悔し泣きしていた姿を今でも覚えています。筑波から静岡の学校へと移ったことは、「大海から井戸へ」というような感覚でした。
聞き手:―孤立の中での受験勉強を支えたものは何だったのでしょう。
川嶋さん:
「アンテナを高く持つ」という考え方と絶対に進学するという思いです。学校側にノウハウがないなら、自分で情報を集めるしかない。SNSやメーリングリストを通じて外の世界と繋がりながら、自分がやりたいことや世の中にどんな職業があるかなど徹底的に調べて大学合格まですべて自分でやりました。
「お手上げ」から、情報の作り手へ
聞き手:―静岡福祉大学での生活はいかがでしたか?
川嶋さん:
大学側には「ここに点字ブロックがあると助かります」「教室番号に点字案内がほしいです」と積極的にかけ合いました。盲学校よりもむしろ、一般大学のほうが風通しが良く、一人の人間として向き合ってもらえた感覚があります。高校時代に取得した「盲ろう者向け通訳介助者」の資格が、福祉を受けるだけでなく担い手になろうと決めるきっかけになりました。
聞き手:―友人との関わりはいかがでしたか?
川嶋さん:
たくさんの友人が手を差し伸べてくれました。電車で偶然会えば声をかけて一緒に行ってくれたり、教室の移動を手伝ってくれたり、学食やコンビニで張り紙を読んで代筆をしてくれたり。講義中の眠気に耐えきれず、友人と一緒にこっそり抜け出したこともあります(笑)。
聞き手:―その後の就職活動はいかがでしたか?
川嶋さん:
厳しかったですね。ソーシャルワーカーを目指していくつか受けましたが、どこもはじめはやさしく出迎えてくれても、結局断られて終わる。とある面接では、2時間に渡って差別的な発言を受けつづけました。障害者雇用を推進しているところほど、視覚障害者は少数派で想定されていないのだろうと感じました。
「午前中に相談支援部門の縮小が決まったから、応募を控えてください」という電話が来たこともありましたし、はっきりと「お手上げです」と言われたこともありました。白杖を持っているのに、ある社会福祉士から「車の免許は持っていますか」と聞かれた時には、さすがに驚きました。
社会からの障害者に対する理解は、予想よりも厳しいものでした。障害者が福祉の利用者になるのは簡単ですが担い手になるのは本当に難しいことです。
聞き手:―そこから、現在の日本ライトハウスでの仕事にはどう繋がったのでしょう。
川嶋さん:
SNSでの発信です。
面接で落とされた悔しさをメーリングリストに書いたりSNSに点字にかかわる仕事がしたいと書いたりしたところ、とある視覚障害の方が今の仕事を紹介してくれました。現在は、一般校に通う視覚障害の児童・生徒向けの点字教科書の触読校正や、サピエ図書館に並ぶ蔵書の製作、などを担当しています。

聞き手:―「点字図書作成」という仕事の面白さを、もう少し聞かせてください。
川嶋さん:
単なる誤字探しではないんです。例えば複雑な図表を、言葉だけで、いかに構造的に、かつ簡潔に伝えるか。見出しの立て方は適切か。ストレスなく読めるよう、編集的な視点でも情報を整える仕事です。
聞き手:―仕事以外にも打ち込んでいることはありますか?
川嶋さん:
津軽三味線と民謡です。芸の世界の良さは、幕が上がれば障害など関係ないところです。音と実力だけでフラットに評価されるのが嬉しいですね。第13回津軽三味線・津軽民謡全国大会inびわ湖では「津軽よされ節」で優勝することもできました。

温室を出て、外の風に触れる
聞き手:―いま、全国の盲学校で学ぶ後輩たちや、教育関係者に伝えたいことは何でしょうか。
川嶋さん:
盲学校という場所は、放っておくと温室になりがちです。そこに浸かり続けるのではなく、アンテナを高く張って、自分から外の世界の刺激を求めに行ってほしいです。
社会に出れば、僕のように「お手上げだ」と言われる場面もあるかもしれません。そのときに自分を守ってくれるのは、誰にも負けない「好きという気持ち」や「専門スキル」だと思います。僕にとっては、それが点字であり、音楽でした。
聞き手:―自分から掴みに行く、ということですね。
川嶋さん:
はい。情報は、待っていても来ないので自分から掴みに行くものです。失敗や刺激を恐れずに経験を重ねてほしいですね。自分自身、将来的にはマッサージの国家資格を取ることにも関心があります。情報を掴みに行く姿勢さえあれば、選択肢は一つずつ、時間をかけて増やしていけると思っています。