
「あきらめの先に見つけた、世界でどうにか生き抜く力」
鈴木龍弥さん(筑波大学附属盲学校出身)
- 事務職
- 全盲
筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)から文京盲学校(現・東京都立文京視覚特別支援学校)を経て、現在は建設資材ディーラーで働く鈴木龍弥さん。「大成功した人だけではなく、私のようなリアルな盲学校卒業生の話をもっと知ってもらいたい」という想いで盲B盲Gのインタビューに応じて頂きました。
🎧 鈴木龍弥さんのインタビューをAIポッドキャストで聴く
聞き手:ー鈴木さんの盲学校歴から教えてください。
鈴木さん:
はい。小学校に上がる前、久我山盲学校(現在:久我山青光学園)の幼稚部に週2回、地元の保育園に週3回通う「二刀流」の生活を送っていました。
聞き手:ー地域の保育園への入園は、すんなりいきましたか?
鈴木さん:
いえ。兄が通っていた園だったのですが、最初は断られました。1年後、園長が変わったタイミングでようやく受け入れが決まったんです。園側も障害児は初めてでしたが、私一人のために「補助の先生」をつけてくれるという体制を整えてくれました。
聞き手:ー周囲の「見える子」たちとの関係はどうでしたか。
鈴木さん:
子どもたちは本当にフラットでしたよ。「なんで見えないの?」と聞かれれば「生まれつきだよ」と答える。それで終わり。特別扱いされることもなく、ごく自然に一緒に遊んでいました。一方で久我山では、リトミックや点字の習得など、視覚障害者としての専門教育を受けていました。
聞き手:ー鈴木さんにとって、どちらが心地よかったのでしょう。
鈴木さん:
正直に言えば、保育園の方が楽しかったですね(笑)。盲学校は「勉強する場所」でしたが、保育園は「マジョリティの中で遊ぶ場所」だった。幼いうちに、自分とは見え方の違う子たちが大勢いる世界を「当たり前」のものとして経験できたことはよかったです。
厳格な歩行訓練
聞き手:ーその後小学校は、盲学校を選ばれたのでしょうか?
鈴木さん:
そうです。小学校から中学校までは、筑波の附属に通いました。特に印象に残っているのは、自立活動(自活)の先生の厳しさです。例えば、駅で人に声をかけてサポートを得るための練習をしたときのことです。
私が声をかけた方は、正に電車に乗ろうとしていたんですね。「その人が電車を一本逃すじゃないか」と。これは声をかける人もちゃんと選びなさい、という指導でした。附属は中学部までいましたが、とにかくこの自立活動の先生が厳しかったことを今でも覚えています。
聞き手:ーその後高等部からはどちらへ通われましたか?
鈴木さん:
文京盲学校です。正直、最初は特に居心地が悪かったですね。附属出身というだけで「すごいね」と色眼鏡で見られる空気がありましたし、何より学校の「仕組み」に愕然としました。
当時の話なので今はわかりませんが、盲学校なのに、出席簿代わりの「日計表」が点字で運用されていなかったんです。これらは「公文書」だからという理由で墨字(活字)のみ。先生からは「鈴木さんは職員室に来て読み上げてもらって」と言われました。
聞き手:―それは戸惑いますね。
鈴木さん:
一時期、強く反発しました。というのも、これは附属の寄宿舎では点字で完結できていたことなんです。筑波ではできて、なぜここではできないのか。「仕組みを整えれば済む話だ」と先生と何度も衝突しました。でも、諦めたんです。
聞き手:ー諦めた。
鈴木さん:
はい。正確には「戦略を切り替えた」といいますか。社会に出れば点字の文化はほぼ存在しません。盲学校ほどの手厚いサポートもありません。だったら、点字の完備を求めるより、今のうちに「他者にお願いして頼るスキル」や「データを活用して不便を補う術」を身につける方が、よほどマジョリティの世界で生き残れるのではないか、と。

「役割」の創出
聞き手:―高校卒業後は、どうされたのでしょうか。
鈴木さん:
大学受験の失敗、川田や明大前の訓練施設での日々、そして文京盲学校の専攻科(保健理療科)の中退など、とにかく20代前半は迷走の連続でした。ただ、その後建設資材ディーラーに就職し、今は4年ほど働いています。主な仕事としては、製品関係の資料管理やファイリング、新入社員研修での事業説明などを担当しています。
聞き手:―職場環境は整っていましたか?
鈴木さん:
いえ。そもそも専属のメンターがいなかったので、自分なりに学んで、動くしかありませんでした。複合機やファイルに点字シールを貼って一人で印刷できるようにしたり。
また、シュレッダーに関しても、最初は袋の交換のたびに同僚を呼んでいたのですが、30分おきに呼ばれるのが「面倒だ」と感じたのか、あるいは親切からなのか、とある先輩が「教えるから自分でやってみて」と言ってくれて、それからは自分で完結して行っています。
聞き手:―その後は順調でしたか?
鈴木さん:
入社してしばらく経った頃、仕事が減って「1日中やることがない」という時期が訪れました。これは辛かったですね。
待っていても仕事は来ないと悟り、自らサーバーにアクセスして「誰も手をつけていないが、誰かが必要としている仕事」を探しました。他部署の売上データの集計などを勝手に巻き取っていったんです。仕事をパスしてくれる先輩も見つかったりと、今はなんとか毎日やっています。

失敗体験も知ってほしい
聞き手:―鈴木さんが今、盲学校の子供たちに一番伝えたいことは何でしょうか。
鈴木さん:
とにかく「外の世界」に出て、同世代の「見える人」と関わる機会を作ってほしいということです。盲学校という守られた文化の中だけで大人になると、社会に出た時に「仕事はできるが、独特の世界観があって壁を感じる」と思われてしまうことがあります。習い事でもボランティアでもいい。見える友達と遊び、彼らが何を考え、どう動くのかを肌で知っておくことは、将来の自分を必ず助けてくれます。
聞き手:―保護者の方々に対してはいかがですか。
鈴木さん:
子供が「やりたい」と言ったことを、危ないからと制限せずに、どんどんやらせてあげてほしいです。私の両親は何でもやらせてくれるタイプで、一人で丸太の上を歩いて遊んだりしていました。多少の怪我は当たり前と多少割り切った方が、いい経験につながると思います。
聞き手:―最後に一言あれば、お願いします。
世の中のロールモデルは成功体験ばかり語りますが、私のような「今も迷いながら現場で戦っている人間」の声も、誰かの役に立つはずです。失敗してもいい、仕組みに不満があってもいい。その中で、どうもがいて、働いて、生きていくか。私はこれからも、ときには転びながら、社会の隙間に自分の役割をこじ開けていきたいと思っています。