
「知らないことは選べない」
外谷渉さん(岩手県立盲学校出身)
- エンジニア
- 全盲
岩手県の盲学校から、国内大手セキュリティ企業のマネージャーへ。外谷渉さんのキャリアは、自身の特性を客観視し、どのフィールドで最大の価値を発揮できるかを検証しつづけた、「知的な戦略」の軌跡といえます。インターネットとプログラミングを武器に、広い世界へと踏み出してきたエンジニアが、コードの先に見据える「事業の価値」とは。20年の歩みを伺いました。
🎧 外谷渉さんのインタビューをAIポッドキャストで聴く
ー外谷さん、はじめまして。
外谷さん:
はじめまして。外谷渉と申します。岩手県の出身で、全盲です。幼稚部から高等部までの14年間を岩手県立盲学校(現・岩手県立視覚支援学校)で過ごしました。
卒業後は愛知県の日本福祉大学で情報系の専門を学び、新卒で現在働いているIT関連の会社に入社、以来20年にわたりエンジニアとしてキャリアを積んできました。ここ3年ほどはマネージャーを務めています。
ープログラミングに触れたきっかけを教えてください。
外谷さん:
小学校の頃から、MS-DOS上で動く「AOK」という音声読み上げソフトを使ってパソコンには触れていました。ただ、当時はゲームをするか文字を入力する練習をさせられる程度でしたね。決定的な転機は中学校時代、岩手県立盲学校の数学の先生がプログラミングを教えてくれたことでした。
ー数学の授業でプログラミングを学ばれたのですか?
外谷さん:
はい。当時の数学の教科書に、付録のように「BASIC」という言語のリファレンスが載っていたんです。私は1学年1人という環境だったので、その年のカリキュラムが早く終わると、先生が「じゃあ、これをやってみようか」と。先生自身に知識があったことも幸いしました。最初はじゃんけんゲームや、簡単な音が鳴るプログラムを作るところから始めたのを覚えています。
「1学年1人」の密度
ー岩手の盲学校での「1学年1人」という環境を、どう捉えていましたか。
外谷さん:
私にとっては良かったと感じています。まさに「個別指導」そのものでした。私のペースに合わせてくれますし、教え方も最適化してくれる。自分の好きなものを作れるプログラミングの楽しさにのめり込んだのもこの密度の高い教育環境があったからこそだと思います。

ー当時はどのようなものを作っていたのでしょうか。
外谷さん:
中学生の頃はシンプルなものでしたが、高校生になると「実用性」も意識するようになりました。例えば、自分が使う点訳データを読みやすくレイアウトするツールを自作したんです。これは「ユーザー(自分)が抱える不便を技術で解決する」という開発の原体験になりました。
当時、自宅でインターネットが使える環境を整えてもらっていたので、学校という枠を超えて外の世界の様々な知識に触れられたことも大きな学びになりました。
ーその後の進路はどのように選択されましたか?
外谷さん:
最初は地元の岩手県立大学の情報系学部を志望し、オープンキャンパスにも通って調整を進めていました。しかし最終的には、「ビジュアル的なシミュレーション授業があり、視覚障害者の受け入れ実績がないため卒業を保証できない」と断られてしまいました。
結局、障害学生の受け入れ実績のあった愛知県の日本福祉大学に進学しました。そこではボランティア学生による受講のサポートや、先生方からのテキストデータでの教材の提供などサポートが手厚く、専門性を深めることができました。
「いい誤解」が開いた扉
ーその後の就職活動はいかがでしたか。
外谷さん:
そこが最大の壁でした。「全盲の技術職」というだけで、数十社からエントリー段階で断られました。「活躍できるフィールドがない」という綺麗な言葉で、面接すら受けられない。そんな中、現在の勤務先となっている会社に出会ったのは、ある誤解がきっかけでした。
ーどのような誤解だったのでしょうか。
外谷さん:
ネットで「全盲で働いている人がいる」という記事を見つけ、勝手に「全盲のエンジニアがいるんだ!」と思い込んで応募したんです。実際にはその方は人事担当で、技術部門に全盲のエンジニアはいなかったのですが(笑)。しかし会社側は初めから私を拒絶せず、2週間のインターンシップを提案してくれました。
ーその2週間が、運命を決めたわけですね。
外谷さん:
はい。会社側も「外谷は本当に使えるのか」を見極める必要がありました。私にとっても、どのように開発業務ができるのか確認しつつ、実力を証明する貴重な機会になりました。
結果として会社から一定の評価をいただくことができ、また私としても「この環境で仕事がしたい」という感触を得ることができました。このような経緯で、やっと大学4年生の10月に内定をいただくことができました。
特性に合わせて、環境を変える
ー入社後はどのようなお仕事をされましたか?
外谷さん:
最初は現場も「全盲の技術職をどう受け入れるか」を模索している段階で、入社から1〜2年は「勉強していていいよ」と言われ、仕事をしているより勉強している時間の方が長かったです。せっかくの自己研鑽の時間になったので、その期間に資格取得などで自分の武器を磨き、徐々にSI(システムインテグレーション)部門でWebサイトの保守などを任されるようになりました。
しかしSI部門で3年働き、当時の業務内容には限界を感じていました。画面のレイアウト崩れや文字サイズといったビジュアル要素の確認には、どうしても他人の目を介在させる必要があったからです。そのため、当時の上司と相談し、視覚障害がハンディになりにくい分野の開発を行える部門へ移動しました。
ーそこで選んだのが、データベースやログ分析の世界だった。
外谷さん:
はい、テキストデータと論理の塊であるこの領域なら、視覚障害のハンデは少ないと思いました。逆に論理構造やテキストデータが中心な世界は強みにもなりえると感じました。
ーその後はどのようなキャリアを歩んできましたか?
外谷さん:
ログ分析やデータベース関連の業務に3年ほど従事し、ある程度「視覚障害があっても開発はできる」という実感を持つことができました。その後新規立ち上げされた研究開発部門に移動し、10年ほど、さまざまなシステムを開発してきました。ここ3年程は、研究開発部門で培ってきた成果をもとに、事業につなげるプロダクト開発を行う部門でマネジメントをしています。
ーその間、社内で全盲のエンジニアに関する見方は大きく変わったのではないでしょうか。
外谷さん:
このような経歴の中で、実績を積み上げることで、「全盲でも技術職として戦力になる」ということを社内でご理解いただいてきたと思っています。社外においても「サイバーセキュリティに関する総務大臣奨励賞」をいただきました。その結果、これまでに5〜6名の視覚障害を持つエンジニアを採用し、育成する流れを作ることができました。障害のある学生向けのインターンシップの実施や新卒採用も継続的に実施しています。

ーすごいです!ちなみに、会社側の配慮はどのようなものがありましたか?
外谷さん:
「説明する際は指示語ではなく、具体的に言葉にしてほしい」「図やグラフなど画像についてはデータをいただいても内容がわからないので、口頭で説明してほしい」など、環境や一緒に働くメンバーが変わる都度、できるだけ具体的にお願いしています。
複数の部門で色々な方とかかわりながら仕事をしてきましたが、当然初めは何が必要かわからないところからスタートするので、丁寧なコミュニケーションが重要だと思っています。また、周囲から認めていただければいただけるほど、こちらの「お願い(配慮)」は聞いてもらいやすくなります。
ーちなみに、ずっとエンジニアとして働いてこられましたが、マネジメントのお仕事はいかがですか?
外谷さん:
今は自らコードを書くことはほぼありません。かつて「どう実現するか」を追求した技術の抽象化能力を、今は「どうすれば事業価値(利益)につながるか」という方向に振り向けています。レイヤーは変わりましたが、論理的な実現方法を問い続ける楽しさは変わりません。
知らないことは、選べない
ーいま岩手県立視覚支援学校をはじめ、全国の盲学校で学ぶ子どもたちや教育関係者に、最も伝えたいことは何でしょうか。
外谷さん:
強く伝えたいのは、「知らないことは選べない」ということです。学校の中だけが世界の全てではありません。先生が「それは難しい」と言ったとしても、それはその先生の知識がアップデートされていないだけかもしれない。インターネットを通じて社会で活躍する当事者と繋がり、広い視野で情報を集めてほしい。知っていれば、選択肢は無限に広がります。
ー外谷さん自身、その選択肢を広げるためのハブになる覚悟をお持ちですね。
外谷さん:
はい。社内という狭い話をすると、私のグループに視覚障害のあるメンバーが集まっていますが、本来はもっと多様な部署で活躍してほしいと思っています。それが各自のキャリアの幅を広げることであり、より広い意味では視覚障害の労働者全体の可能性を広げることにつながると考えています。そのための支援をしていきたいと思っています。
また、もし進路に悩む子がいて、私の経験が役に立つなら、喜んでサポートできればと思っています。一過性の支援ではなく、次の世代が当たり前に挑戦できる土壌を作ることに貢献していけたらと思っています。
