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秋山里奈さん(平塚盲学校出身)のインタビュー記事

「泳ぐレーンを変えていく」

秋山里奈さん(平塚盲学校出身)


平塚盲学校から筑波大学附属、そして明治大学・大学院で法学を修め、現在は外資系製薬会社でプロフェッショナルとして働く。その傍ら、フルートやピアノといった音楽の海にも深く潜る秋山里奈さん。パラリンピック競泳金メダリストでもある。変幻自在な人生の泳ぎ方から、私たちは何を学べるでしょうか。

🎧 秋山里奈さんのインタビューをAIポッドキャストで聴く

ー秋山さんの原点には、視覚障害への専門教育と、一般校での交流という「ハイブリッドな環境」があったとお聞きしました。

秋山さん:
はい。私は緑内障で先天的に全盲なので、幼稚部から小学部まで平塚盲学校に通いました。点字や歩行訓練、物の触り方といった「社会で生きるためのOS」をほぼマンツーマンで教えていただきました。一方で、週に一度の「副籍交流(一般校への通学)」では、大勢の中で揉まれる刺激を楽しんでいました。母、盲学校の先生、そして受け入れ先の学校が「完璧なフォーメーション」で私を支えてくれていたんです。

ー具体的にはどのようなサポートでしょうか?

秋山さん:
例えば母は、私が友達の輪に入れるようにお友達集団にさりげなく声をかけてくれたり。盲学校の先生は、見えない私が学べるよう一般校の先生に視覚障害教育についての情報提供をしてくれたそうです。盲学校は生徒数は少なかったですが、その分このような校内外含めたサポートは手厚かったです。

ーその頃から、周囲が驚くほど好奇心旺盛だったそうですね。

秋山さん:
「見えないからできない」と思ったことがなかったんです。例えば、小学校3年生で皆が書道を始めた時、私は迷わず「習字をやりたい!」と言いました。墨の感触も、紙に筆を置く感覚も、周りの友達と同じように経験したかった。姉や友達が自転車に乗っていたので、自然と私も「自転車に乗りたい!」と思い、誰もいない校庭で練習をしたこともありました。

ー水泳はいつ頃から取り組んでいますか?

秋山さん:
物心ついたときにはスイミングスクールに通っていました。視覚障害があっても危険が少なく、全身を動かせる運動ということで、母が水泳を選んで習わせました。

誰もいない象徴的な校庭に女の子用の自転車が金網にたてかけられている

「50:50」のポリシー

ー中学生以降のお話も教えてください。

秋山さん:
中高と、筑波大学附属視覚特別支援学校に通いました。その頃私は、自分のことを要領がいいと思い込んでいて(笑)、勉強は効率よく済ませ、あとは水泳に邁進していました。

在学中に参加したアテネパラリンピックでも銀メダルを獲得できたので、「水泳さえやっていれば、推薦で道が開ける」と慢心もしていました。でも、受験に失敗し、浪人が決まった瞬間、「水泳だけでは人生を切り拓けない」と突きつけられたんです。実は、一度は水泳を完全に辞めようとさえ思いました。

ーそこからどのように再起したのですか?

秋山さん:
大学に合格したらもう一度泳ぐ、ただし「学業と水泳を50:50で両立させる」というポリシーを自分に課しました。浪人時代は、地元の点訳ボランティアの皆さんが、膨大な予備校のテキストを寝る間も惜しんで点訳して支えてくれました。「合格の報告こそが最高のお礼」と、猛勉強しましたね。

ー大学、そして大学院では、素晴らしい恩師との出会いもあったとか。

秋山さん:
大学院の刑法の教授は、私の障害を特別視せず、絶妙な「距離感」で接してくれました。困った時にはそっと手を差し伸べるけれど、過剰な先回りはしない。「この先生の元で勉強したい!」と、最終的には修士論文を書き上げるまで勉強に集中しました。同時に、ロンドンパラリンピックで金メダルを手にできたので、「水泳はここまで」「セカンドステージへ向かおう」と決めました。

誰もいない象徴的な屋内プール。

成功の事前設計

ーその後はどのようなステージに進んだのでしょうか。

秋山さん:
就職活動を経て、外資系の製薬会社に入社しました。私はOL生活がしたくてたまらなくて、ずっとワクワクしていたんです(笑)。驚いたのは、会社が私の採用を決める前に「彼女がどの業務なら活躍できるか」を具体的にシミュレーションしてくれていたことです。合理的配慮とは、単に負担を減らすことではありません。成果を出せることを事前に設計することなのだと、身をもって知りました。

ーただ数合わせのための雇用ではなく、「活躍」してもらうためという観点があったんですね。

秋山さん:
そうなんです!最初に配属された社内研修を担当する部署では、先輩方が音声ソフトを学んで環境を整えてくれ、私は即戦力として、講師のバックアップや、Web研修のナレーションや運営を任せてもらえたんです。

ー素晴らしい職場環境ですね!

秋山さん:
ただその後部署が変わり、私が苦手とする移動や出張が多い環境、あるいは画像データなどの非テキスト情報を扱う業務に直面した時、初めて「見えないことの壁」を痛感しました。ITの進化でも超えられない限界がある。周囲は出張で飛び回っているのに、自分だけがオフィスに残る。自分のキャリアについて悩んだ時期でもありました。

ー今はどのような部署で、どのようなお仕事をされていますか?

秋山さん:
今の部署では、MR(医療情報担当者)の方々のサポートを行っています。私が得意とする「問い合わせへの対応力」と「丁寧さ」を活かせています。問い合わせへの回答一つとっても、不要なやりとりが増えることを防ぐ配慮や、相手を不快にさせない表現を徹底しています。スピードでは勝てなくても、間違いが許されない医療に関わるお仕事だからこそ、丁寧さという私の強みで貢献できているという自負があります。

ー日々パソコンを沢山使ってお仕事されている印象を受けました。そのスキルはいつ身につけましたか?

秋山さん:
小学校5年のとき、盲学校でパソコンを始めました。先生が「社会に出ればコミュニケーションは墨字(活字)が標準になる」「だから絶対にやった方がいい」と、パソコンの使い方に加え、正確な漢字変換も徹底的に教えてくださったんです。この時の教育があったからこそ、今の仕事ができているのかもしれません。

誰もいない象徴的なオフィス。秋山さんのであろうデスク。その上にパソコンとキーボード。

レーンを変えながら生きる

ー今後やってみたいことはありますか?

秋山さん:
無我夢中で働いた後、仕事で色々とあったこともあり、改めて人生を俯瞰できる時期があったんです。そんな時、心に浮かんだのが幼い頃から憧れていたフルートでした。ことあるごとに「やってみたいな」という気持ちが芽生えていたので、フルートを習っていた友達に連絡を取り、先生を紹介してもらいました。

これまでは親や先生が環境を整えてくれていましたが、今回は初めて、自分で道を探し、切り拓いたなあという実感です。

ー「自律した挑戦」ですね。

秋山さん:
そうなんです。アスリート時代に水泳へと向けていたエネルギーを、今は音楽へとぶつけています。幼い頃に習っていたピアノも再開したんです。いつか市民オーケストラの一員としてフルートを吹いたり、あるいは先生との2台ピアノで、表舞台で演奏することが夢です。

ー秋山さんの人生は、レーンをどんどん変えながら泳いでいくようですね。最初は水泳というレーンを泳ぎ、次いで勉強というレーン。その後働くというレーンで泳ぎながら、今度は音楽レーンをすいすいと泳ぎ始めています。

秋山さん:
そうかもしれません。やってみたいことが色々あるんですよね。

誰もいない音楽教室に置かれたフルート

ー是非、視覚障害のある子どもたちにメッセージをお願いします。

秋山さん:
やりたいと思ったことは、とにかくやってほしいです。「見えないからできないかな」「失敗したらどうしよう」という気持ちは一旦置いておいていいです。やってできないことは多分あるんです。私も習字はやってみて難しかった。でも、やってみて難しいなと思えば納得するんですよね。そして満足もします。とにかくいろんなこと、やりたい!と思ったことには全部チャレンジしてほしいです。

ー最後に、大人に向けたメッセージもお願いします。

秋山さん:
親や先生は、子どもがやりたがったことは、多少危険はあったとしても、見守りながらできるだけやらせてあげてほしいですね。そこから、好きなものが見えてきたり、得意不得意が自分でわかるようになります。

見えないことで世界が狭まるのはすごく残念だから、やりたがったことはやらせてほしいです。例えば料理でも、多少本人が怖がっても「大丈夫、一緒にやればできるから」と包丁や火を一緒に使うとか。そうやって見えない人の世界を一緒に広げていってもらえたら、すごく嬉しいです。


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