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石田由香理さん(和歌山県立和歌山盲学校出身)のインタビュー記事

「やる前から諦めない」

石田由香理さん(和歌山県立和歌山盲学校出身)


和歌山の盲学校から、東京、フィリピン、イギリス、そして国際協力の最前線であるJICA(国際協力機構)へ。石田由香理さんの歩みは、常に「自分を取り巻く小さな世界」に危機感を抱き、自ら広い環境へ飛びこみ続けてきた挑戦の連続です。

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ー石田さんのバックグラウンドを伺うと、和歌山盲学校での経験が非常に大きいように感じますが、実はその前から「外の世界」との繋がりがあったのですね。

石田さん:
はい。1歳3ヶ月で眼球を摘出した後、大阪の「希望教室」という、退職した先生が自宅で開いていたような就学前教室に通っていました。そこで1歳や2歳の頃から同じ視覚障害を持つ子たちと出会っていたんです。その時にできたネットワークがあったからこそ、和歌山という一地方にいても、私の意識は常に外に向いていたのかもしれません。

ーその後、幼稚部から中学部までを通われた和歌山盲学校は、どのような学校でしたか?

石田さん:
先生方がとにかく「自分たちで議論して決める」ことを徹底させていました。休憩時間に何をして遊ぶか、重複障害のある子も下級生も全員が楽しめるスポーツのルールは何か。それを自分たちで話し合い、合意形成をしていく。文化祭の劇作りも、台本から衣装まで自分たちで考えました。先生方はあえて介入せず、喧嘩や失敗を放置して見守ってくれたんです。

教室に置かれた衣装の数々。無人の教室。象徴的なモノクロ写真

ーその環境が、石田さんの「飛び込む力」の源泉になったのでしょうか。

石田さん:
後で聞いた話ですが、かつて先生方が生徒たちに手をかけすぎて「待ち」の姿勢になってしまった学年があり、その反省から私たちの代は「自分たちで考えて、動ける子にしよう」という明確な意図があったそうです。窓もドアも開け放して、学年の枠も飛び越えて「どこへでも行ってこい」という空気。そこで培われた「自分はどうしたいか」を問われ続ける経験が、その後和歌山からあえて外へ飛び出す勇気をくれたのかもしれません。

「4位の自分」が選んだ道

ーその後高校から東京に出られたのは何故でしょうか?

石田さん:
和歌山では、水泳大会でも、バタフライを泳げるのが私一人なら、完泳するだけで優勝する状況だったんです。なんでも1位になれてしまうといいいますか。でも、去年の自分に勝っただけで表彰される環境に、「このままでは勘違いしてしまう」と恐怖を感じました。

実は当時、近畿圏にどうしても勝てないライバルが3人いたんです。模試でも大会でも、私はいつも4位。そのうち上位2人が筑波大学附属視覚特別支援学校に行くと聞き、「彼女たちが行く場所なら、私も行かなければ」と、戦略的にライバルを追うことに決めました。

ー厳しい環境に身を置き、その後の浪人時代に「国際協力」という具体的な志が芽生えたそうですね。

石田さん:
当初は『ハリー・ポッター』の影響で翻訳家を目指していたのですが、浪人時代の予備校の世界史の先生の話が、私の「点」を繋いでくれました。先生がインドで子どもにチョコレートをあげたら、その母親に箱を投げつけられたという話です。「買えるはずのないものの味を教えて、子どもに中途半端な夢を見せないでくれ」と。その残酷なまでの現実に、強い衝撃を受けました。

インドの道に象徴的に置かれたチョコレート

ー強烈なエピソードですね。

石田さん:
同時に、自分の家庭でも「大学に行かせる余裕はない」と言われ、教育を受けられない可能性に直面しました。やる気はあるのに、環境や経済的な理由で可能性が狭まってしまう。一方で、会ったこともない点訳ボランティアの方々が、私の大学受験のために不眠不休で予備校のテキストを打ってくれている。結果、国際基督教大学に合格することができました。このとき自分が受け取った何かを、この世界に恩返ししたい。そうした様々な経験や感情が結びつき、「途上国の教育支援」をしたいという思いが、自分の境遇と重なって確信に変わりました。

理想とリアル

ーフィリピンの現場で、ご自身の運命と重ね合わせるような体験をされたと伺いました。

石田さん:
はい。大学時代に、1年間フィリピンに留学をしたんです。その際、盲学校でのインターン中、一度聞いた読み聞かせを完璧に再現できる天才的な2歳の女の子に出会いました。でも、彼女は適切な教育を受けられず、ただ「そこに置かれている」だけ。もし私が生まれる国を間違えていたら、これが私の運命だった。その恐ろしさと申し訳なさが、私を突き動かしました。

ーその後JICAという大きな組織を選んだのは、非常に現実的な判断もあったそうですね。

石田さん:
はい。大学卒業後はイギリスのサセックス大学大学院で開発学を勉強し、その後に国際支援を行うNPOに所属しました。フィリピンに住みながら、フィリピンの盲学校事情を細かく調査したりと、有意義な時間を過ごしました。

フィリピンの盲学校。少し古い校舎。誰もいない象徴的な写真。

一方で当時の給料は、東京の最低賃金を下回るような過酷なものでした。ガススで働く高校生バイトの方が時給が高い現実に、「私は何のために大学院まで出たのか」と悶々としていたんです。持続可能な活動のためには、まず自分自身が経済的に自立する必要がある。そう考えてJICAへの転職を決めました。

ーJICA入職後、1年半の休職を経験されたことも公表されています。北九州(JICA九州)への異動も含め、その過程をどう捉えていますか?

石田さん:
前例のない環境に「全盲の職員」として飛び込み続けることは、想像以上に心を削る作業でした。仕事がない、どう扱っていいか分からないという周囲の戸惑いの中で、1ヶ月でうつ病になり、1年半休みました。でも、これは「先駆者の傷」かもしれません。一度立ち止まり、その後北九州という新天地で再び歩み出したことで、今では海外留学される方のサポートを全面的に行えるようになっています。

ー今後挑戦したいことはありますか?

石田さん:
JICAに所属しながら、例えば1年限定で色々な企業で経験をつみたいです。視覚障害者の採用において、多くの企業側は「どう接すればいいか分からない」「どんな支援をしたらいいかわからない」と悩むこともあるのではないでしょうか。ならば、私が現場に入って「普通に戦力になる」ことを証明すればいい。JICAという組織の看板を使い、企業のリスクを最小限に抑えながら、障害者と社会が幸福に出会える「お試し期間」を作る。それが、今の私にできる社会への営業活動だと思っています。

ー今、未来に不安を感じている盲学校の子どもたちや保護者へ、何を伝えたいですか?

石田さん:
「やる前から諦めないで」ということです。前例がない、枠がない。それは単に「まだ誰もやっていない」だけで、不可能な理由ではありません。私も「とりあえずやってみたら、できた」ことの連続でした。もしダメだったら、その時に改めて諦めればいい。最初から自分で自分の世界に蓋をしないでほしいんです。

ー周囲の大人たち、そして社会に対してはいかがでしょうか。

石田さん:
本人の意欲を信じてください。和歌山の先生たちがそうだったように、自分の頭で考え、決定させる機会こそが、社会で生きていくための本物の力になります。そして企業の皆さん、視覚障害者は「特別な存在」ではありません。まずは出会うこと。私はそのための「架け橋」として、どこへでも伺います。


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