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木村敬一さん(滋賀県立盲学校出身)のインタビュー記事

「世界を広げる唯一の手段は、実体験」

木村敬一さん(滋賀県立盲学校出身)


パラリンピックで金メダルを獲得し、世界の頂点に立った木村敬一さん。その歩みは、決して平坦なものではありませんでした。滋賀の盲学校から始まった寮生活。競争の面白さを知った筑波での日々。そして言葉も文化も違うアメリカへの留学。「やったことのないものって、知らないと同じなんです」。そう語る木村さんの言葉は、盲学校で学ぶ子どもたち、そしてその保護者の方々へ、一歩踏み出す勇気と、無限の可能性を示してくれるでしょう。

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

木村さん:
はい。1歳半ぐらいで失明していて、見えていた記憶は全くないです。職業はスポーツ選手で、パラリンピックを目指してトレーニングをしています。東京ガスという会社からサポートをいただいて競技活動をやっていまして、その他には講演やメディア出演といったお仕事もさせていただいています。

ー盲学校にはいつから通われていたのですか?

木村さん:
幼稚部からです。滋賀県立盲学校に幼稚部と小学部、中学部と高等部は筑波大学の附属盲学校に通いました。

ー滋賀での小学校時代は寮生活だったそうですね。

木村さん:
小学1年生から6年間、寮で過ごしました。自宅から片道1時間くらいかかったので、月曜の朝に送ってもらって、金曜の夕方か土曜のお昼に父や母が迎えに来てくれるという生活でした。寂しさは全く感じませんでしたね。寮の先生方が本当に一生懸命で、寂しくないようにしてくれていたんだと思います。

例えば、僕が少し思春期気味で「みんなで誕生日会なんてやりたくない」と言った時には、先生がゲームセンターに連れ出してくれてストラックアウトをやったり、先生の自宅に泊まって焼肉パーティーをしてくれたり。今だとアウトかもしれませんが(笑)、非常にハートの熱い先生方に恵まれました。着替えとか身の回りのことも、全部寮で教わったと思います。

先生の自宅であろうキッチン。コンロで焼かれる肉。

ライバルの存在

ー中学から筑波の盲学校に移られたきっかけは何だったのでしょうか?

木村さん:
父の希望が大きかったですね。僕が小学1年生の時に、滋賀の盲学校から筑波に進学した先輩がいたそうで、父はその時から「いつか息子も」と考えていたようです。父としては、少しでも人数の多いところに行ってほしかったみたいです。それで6年間、ずっと東京の学校がいいとすり込まれていました(笑)。

ー筑波での生活はいかがでしたか?

木村さん:
それまでは授業もマンツーマンが多くて、他者と比較されることがなかったので、大人数で授業を受けること自体が新鮮でした。テストがあればちゃんと競争が生まれる。「あいつよりできた」とか「あいつの方が賢かった」とか、そういうのが面白かったですね。まさに父の狙い通り、術中にはまりました。自分は、探究心だけで学びを深められるタイプではないので、ライバルのような存在や、外からの刺激があったのは良かったと思います。

ー一方で、寮生活ではご苦労もあったそうですね。

木村さん:
中学1年の夏休み明けに、初めて「寂しいな」と思いました。というのも、同室の先輩が本当に絵に描いたような「先輩」で…。その先輩が学年の中心人物だったので、部屋に友達がたくさん遊びに来るんです。先輩たちに囲まれた中で中学1年生が一人というのは非常に肩身が狭くて、「滋賀に帰りたい」と思っていました。それが一番のストレスでしたね(笑)。

象徴的な寮の部屋。ベッドがいくつかある

「世界との差」

ー水泳はいつから始められたのですか?

木村さん:
10歳、小学4年生の時です。当時、盲学校の中では運動ができる方で、先生と伴走して走っていたのですが、先生から「これ以上速くなられると、ちょっとしんどいな」と言われてしまって。それを聞いた母が「じゃあプールに入れてみるか」と、学校の近くのスイミングスクールに通わせてくれることになったんです。週に1回、母がわざわざ来てくれて、スイミングに送迎してくれました。

ーすぐに「これだ!」という感覚はありましたか?

木村さん:
いえ、特には。ただ、思春期に入りかけていたので、滋賀の盲学校の中で「他の子と違うことをやっている」という気分の良さはありましたね。本格的に水泳を意識し始めたのは、中学2年生の時です。体育の先生だった先生が、グラウンドでサッカーボールを蹴って遊んでいた僕に「来週から高校生と水泳の練習するぞ」と声をかけてくださって。アテネパラリンピックに出場する選手たちの合宿に参加させてもらったんです。

そこで、今ではパラリンピックの殿堂入りをしている河合純一さんたちの泳ぎを見て、速さが全く違うことに衝撃を受けました。僕が1往復する間に周回遅れにされるくらいで、「世界に行くっていうのはこういうことか」と初めて感じました。

ーそれが大きな転機になったのですね。

木村さん:
そうですね。翌年、中学3年生の時に初めてユースの国際大会で海外遠征を経験して、「日本代表になっちゃった」と。遊びじゃなくて試合で海外に行くのがすごくかっこいいなと思って、それに酔っていましたね(笑)。そこから水泳中心の生活でいいなと思うようになりました。

「やったことのないもの」を一つでも多く

ー大学院、そしてアメリカ留学も経験されています。常に新しい環境に飛び込んでいますね。

木村さん:
リオのパラリンピックが終わって、少し燃え尽きていた時期に、また河合さんとお話する機会があったんです。その時「俺がお前の年齢でその立場だったら、海外でも行くかな」と言われて。僕にとって河合さんは圧倒的なロールモデルである一方、大学も違うし、教員採用試験も受からなかったし、金メダルも取れていない、ただの劣化版だという思いがありました。じゃあ「この人にないものは何だろう」と考えた時に、「あ、留学経験だな」と。それでアメリカに行くことを決めました。

ーコネクションはあったのでしょうか?

木村さん:
いえ、全く。とりあえず「全盲のパラリンピック選手がいる国」をネットで探して、アメリカにいた2人の選手を見つけ出したんです。そこから、Facebookで直接メッセージを送って「留学したい」と伝えると、「おいでよ」と歓迎の返事をもらいました。そして、メリーランドとコロラドにある2つの練習拠点を実際に確かめに行ったんです。

ーすごい!

木村さん:
留学中は、水泳の練習に加えて、現地の盲学校のサマースクールに参加したことが印象的です。これも、自分から学校にメールを送ってみたところ、「ちょうどサマーキャンプをやるから来てほしい」とのことで、参加機会を得たんです。そこでは、全米から色々なスポーツのエキスパートが集まり、子どもたちと様々なブラインドスポーツを楽しむ場でした。

アメリカの学校の芝の上にボールが一つ。

見えない子どもたち相手なので、「英語は喋れません」という言い訳は通用しないわけです。そういう環境で、人と深く関われたことも含め、アメリカ留学は自分にとって大きな力になり、その後の東京パラリンピックでの金メダル獲得にも何らかの形でつながっていると感じます。

ー金メダルを獲得し、競技者として頂点を極めた今、新たな目標はありますか?

木村さん:
正直なところ、今はないんです。そこが課題だなと思っていて。ただ、金メダルを取るとやらせてもらえることが増えるので、今はいただいたお話を一つひとつやっている状態です。最近、一番人の役に立てたなと感じたのは、日本財団のプロジェクトで能登に行った時です。現地の皆さんと運動会をしたのですが、外部から「非日常」を提供することで、大騒ぎしたり、走ったり、笑ったりすることを取り戻すきっかけになれたのかなと。人が元気を取り戻す、エネルギーを提供するということは、自分にもできるのかもしれないと感じました。

ー最後に、今盲学校で学んでいる生徒さんや、その保護者の方へメッセージをお願いします。

木村さん:
最近よく言っているのですが、「やったことのないものって、知らないと同じ」だと思っています。僕らはテレビで見ても「知っている」ことにはなりません。一つひとつ、実際にやってみないとカウントできない。先日、初めて象を触ったんですが、耳がこんなに薄いのかと驚きました。イメージと違うものが、この世界にはあまりにも多いんだろうなと。だから、可能な限り、やれることや触れられるものを片っ端から増やしていってほしい。知っていることを増やすために、色々なことに挑戦することが、自分の世界を広げる一番の方法だと思います。