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白井崇陽さん(愛知県立岡崎盲学校出身)のインタビュー記事

「あえて理想を掲げてみる」

白井崇陽さん(愛知県立岡崎盲学校出身)


インタビュー中、白井崇陽さんはおもむろに『遊戯王』のカードとペンを取り出しました。ペンにカードに触れた瞬間、クリアな音声でモンスターの効果が読み上げられる。「見えなくても、見えていても、誰でも楽しめるようあるものに工夫したんですよ」。バイオリニストとしてステージに立つ傍ら、ゲームのアクセシビリティ研究とイベント開催を行うなど、精力的に活動を行う白井さん。時には心が折れそうになりながらも、理想を掲げながら前進してきたその姿を追いました。

―簡単に自己紹介をお願いします。

白井さん:
はい、白井崇陽です。私は、3歳のときに失明しました。そのときの記憶はありませんが、原因となった高熱で入院していた時のことは覚えています。あまりの熱さで唇の皮が乾燥して剥けてしまい、それを自分で剥がそうとして親に止められたこと。子供心に、その痛みと親の必死さが強烈な体験として刻まれています。

麻疹(はしか)や肺炎のような高熱で粘膜系がやられてしまい、左目は全盲、右目もわずかに光がわかる程度です。入退院を繰り返した後、幼稚部の年長から愛知の岡崎盲学校に通い、家族の引越しにともなって小学校2年生の時に東京の筑波大学附属盲学校へと転入し、そのまま高等部卒業まで所属しました。

誰もいない無人の病室。象徴的な写真。

―盲学校という教育環境は、白井さんにとってどのような意味を持っていますか?

白井さん:
視覚障害者が生きていくための「読み書き・計算」のノウハウが凝縮された、極めて手厚い場所です。地域の学校では「やらなくていい」と削ぎ落とされてしまう情報、例えば漢字の構造や筆算のやり方を、プロが徹底的に教えてくれる。これは大きなメリットでした。

しかし、その「手厚さ」にはトレードオフがあります。少人数で、先生や親との関係が濃すぎるあまり、言葉足らずでも周囲が察して通じてしまう。つまり、コミュニケーションにおいて「受信・発信の術」を磨かなくても生きていけてしまうんです。この環境の狭さが、外の世界に出た際の深刻なギャップを生む。私は高校を卒業して初めて、その「副作用」の大きさに気づかされました。

―バイオリンとはいつ出会ったのでしょうか。

白井さん:
親が「将来、仕事にならなくても何かの助けになれば」と3歳のときに習わせてくれました。最初は地域の教室で学んでいましたね。しかし、ヘレンケラー記念音楽コンクールに初めて参加したときに転機がおとずれました。

当時すでに活躍されていた視覚障害のバイオリニスト、和波孝禧(わなみたかよし)先生の演奏を直接聞いたことがきっかけで、自分が目指すべき目標がみつかったんです。かつ、両親が飛び込みで和波さんに連絡をとってくれて、直接お会いすることができました。しかし、こう告げられました。「専門の道に進むつもりなら、今の進め方ではもう手遅れだ」。

―非常に厳しい言葉ですね。

白井さん:
衝撃でした。地域の教室での「習い事」と、プロを目指す「専門教育」の間の埋めがたい溝を突きつけられたのです。しかし、あの時あえて厳しい現実と、和波さんというある意味での「理想」を知れたからこそ、私は中学・高校とプロを目指すためのトレーニングへと舵を切ることができました。ありがたいことに、和波先生にもご指導いただくこともできました。早い段階で「本物の基準」に触れ、自分の現在地を知ることの重要性を痛感した出来事です。

ケースに大切そうにおさまっているバイオリンの写真。

パイオニアだからこその「孤立」

―高校卒業後は、音楽の名門・桐朋学園大学に進学されました。視覚障害のある学生として、いわばパイオニアのような立場だったと伺っています。

白井さん:
はい。当時はまだ視覚障害学生を受け入れた実績がなく、大学側も「どう支援すべきか」の知見が全くない状態でした。毎日、掲示板に貼られる情報を読むために事務局へ足を運び、担当者に読み上げてもらう必要がありましたが、毎日はできませんでしたね。

何より心が折れそうだったのは、学びの質です。当事者への理解がないからこそ、楽譜などの教材は点訳されておらず、フォロー体制が整っていませんでした。とりあえず単位を取るためのレポート提出をすすめられましたが、私はもっと音楽の勉強がしたくで大学に入ったんです。その体制の脆弱さを目の当たりにし、一時は絶望さえ感じました。

―どうやってその状況を乗り越えたのでしょうか。

白井さん:
転機は大学2年生の時、レストランでの演奏で初めて「自分の音」に対して対価をいただいた経験です。「バイトしてみない?」と知り合いから誘われ、いわゆるコンサートホールではなく、レストランというオープンな場所で演奏したんです。ときには目の前の人が食事の手を止め、私の音に耳を傾けてくれる。その時、「この道でなら、生きていけるかもしれない」という想いが湧いてきました。

大学卒業後は、ユニットを組んでしばらく路上ライブをして、自分たちでCDを焼いて500円で手売りしました。その後、映画のサントラ参加を機に、レーベルとの出会いからソロデビューへと繋がっていきました。根底にあったのは「音を届けたい」という想いでしたので、何か形式にこだわっていたわけではなく、そのためにできることは何でも挑戦しようと決めていました。

見えなくてもゲームはできる

―コロナ禍で演奏活動が止まる中、白井さんは「ゲーム」という意外な分野に可能性を見出されましたね。

白井さん:
2020年、全ての公演が中止になり、自分の存在価値を見失いかけていました。そのとき出会ったのが、アクセシビリティが極めて充実した『The Last of Us Part II』というゲームです。「見えなくても一人でプレイできる」という感動は、私を動かしました。

その後仲間を巻き込み、いろいろなゲームを楽しみながら「このゲームは見えなくても十分に楽しめる」「これは、もう少しアクセシビリティを工夫したらできそう」などといった様子をYouTubeで配信するようになりました。

リビングに置かれたPS4とコントローラー

―私も動画を見ましたが、楽しそうにプレイしている様子が伝わってきます。

白井さん:
私が今、最も力を入れているのはリアルな場での「ゲーム体験会」です。視覚障害のある子どもと見える親、あるいは見えない親と見える子ども、だれもが遊べるイベントを開催しています。「視覚に障害がある子どもとゲームができるなんて思わなかった」「中途失明してからゲームを諦めていた」と、みなさま驚かれて、その場でゲーム機を購入されたり、ときには涙を流す方もいます。

―最後に、今、盲学校で学び、未来に不安を感じている子供たちや保護者、先生方へメッセージをお願いします。

白井さん:
私が伝えたいのは、「一つの答えが全部ではない」ということです。学校が教えることだけが正解ではありません。

また、親だけが過度に負担を強いられるのではなく、学校や地域、専門施設などの大人で専門チームを組んで、子どもの最適な未来をみんなで考えるための「全員参加型会議」を定期的に開催できるといいですね。これはあくまで「理想」ですが、理想は掲げないと実現できませんから。ぜひみなさま、まずは「理想」を持ってみてください。そこから、人生が変わることがあるはずです。